行政・司法
| 掲載時肩書 | 神奈川県知事 |
|---|---|
| 掲載期間 | 1964/02/01〜1964/02/29 |
| 出身地 | 群馬県 |
| 生年月日 | 1890/02/28 |
| 掲載回数 | 29 回 |
| 執筆時年齢 | 74 歳 |
| 最終学歴 | 東京外国語大学 |
| 学歴その他 | スペイン・マドリード大学 |
| 入社 | 外務書記生 |
| 配偶者 | 見合 議員娘 |
| 主な仕事 | チリ、仏国、大臣秘書官、宴会係、南米視察、スペイン、ペルシャ、ブラジル、神奈川知事18年 |
| 恩師・恩人 | 田付七太(公使) |
| 人脈 | 吉田茂、藤田嗣治、平賀亀祐、佐藤尚武、芳沢謙吉、軍神岩佐中佐(従兄)、足立正 |
| 備考 | 終戦直後の知事(横浜、長崎、神戸)は外交官出身 |
1890年2月28日 – 1971年11月19日)は群馬県生まれ。外交官・政治家・実業家。神奈川県知事(公選第1・2・3・4・5代)、テレビ神奈川初代社長。日本の国際連合加盟に貢献をした人物として知られる。戦後いち早く文化活動の復興に尽力し、早くも1951年には神奈川県立近代美術館(坂倉準三設計)、そして1954年には神奈川県立図書館・音楽堂(前川國男設計)の開館を実現させた1950年代に、東南アジア諸国との関係改善を目指すアジア善隣国民運動を主導。同運動では全国募金で集めた資金により、マニラ大聖堂の復旧に使用するセメントの寄贈等が行われた。
1.外務書記生
スペイン・マドリードの留学生生活は3年を待たず、明治45年(1912)3月、外務書記生に任命された。書記生としての私の主な仕事は、公使館で毎日のスペイン新聞を全部読むこと、国会へ通うことだった。これはスペインの国情を知るためと、討論を聞いている間に、言葉の細かいアヤを会得するのに大変役立った。
この間に得た私の経験は非常に貴重なものだった。一外交官としてだけではなく、私の政治感覚の大半はこの時に養成されたといっていい。
2.大臣秘書官の仕事
大正11年(1922)11月、ポーランドのワルシャワをたって帰国した。間もなく伯爵内田康哉外務大臣の秘書官に任命された。私は秘書官の仕事はどういうものか全然知らなかったので先輩に訊ねると、誰も要領を得た回答をしてくれない。それで結局、自分で考えることにした。
第一は大臣のカバンを持って歩く。次は宴会その他儀礼的なものへの配慮だ。さらに一番大事なのは面会の取り次で、それも特に面会強要の壮士を適当にさばくことである。まず、こんなことだろうと考えた。
第一の難題は壮士連中の扱いであった。紋付羽織にほお歯のゲタの男、僧衣やシナ服のもの、手を懐にして短刀かピストルかを持っているかの如く装う者、さまざまな格好の連中が肩をいからして攻撃してきた。これらをなだめたり、時にはこちらから大声を出して、一歩も譲らぬところを見せたりして、追い返した。
第二は、もう一つの主要な仕事に宴会係があった。外務省の宴会は面白くないとの定評があった。理由は宴席に侍る芸者は品格あるものが来てくれなく、宴会らしくパッと陽気に楽しませてくれていなかった。そこで“設営名人”の私が威力を発揮することになる。同僚の山崎君と語らって「芸者征伐に出かけよう」となり、霞が関の官舎から赤坂は歩いて行けるので毎晩通った。その赤坂には七人組という半玉がいた。私は彼女らが10時から11時過ぎには、ほかの座敷を引けて帰ってくるのを知っているので、ときどき料亭の一室で待ってやり「お前たち、何でも好きなものを注文して食べなさい」とご馳走した。私も一人でチビリチビリとやり、12時半ごろになると半玉たちは「ごちそうさま、はい、さようなら」と雀が飛び立つように帰って行く。これを繰り返して一月半ほど経つと、外務省からの面白いお客さんと評判が立ち、品格のある芸者さんが正月のようにスソを引いて来てくれるようになった。これには外務省の連中もたまげてくれた。
3.ブラジルの日本人移民の排斥運動
昭和5年(1930)、私がサンパウロにいる間にブラジル移住25周年を迎えた。その頃は移住の最盛期で1年に2万3千人もあった。25周年を過ぎると、そろそろ日本人の移民排斥運動が起こった。日本人の不同化が指摘され、また年々の増勢でこれでは際限なく増えて、ブラジルはそのうち日本人に占領されてしまうのではないかというような声もきかれた。
やがてリオデジャネイロの連邦議会に「移民制限」の憲法修正案が出され、これが通ってしまった。私はそのとき、わが力及ばず、このような事態に立ち入った責任を感じ辞表を提出したが、本国からは「辞任に及ばず」として、かえってリオデジャネイロ大使館に転任を命ぜられ、代理大使となった。
| 内山 岩太郎 うちやま いわたろう | |
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| 生年月日 | 1890年2月28日 |
| 出生地 | 群馬県前橋市天川原町 |
| 没年月日 | 1971年11月16日(81歳没) |
| 死没地 | 神奈川県横浜市港北区日吉本町 |
| 出身校 | 東京外国語学校(現・東京外国語大学)スペイン語科 中退 |
| 前職 | 外交官 |
| 所属政党 | 無所属 |
| 称号 | 勲一等瑞宝章 |
| 親族 | 十文字信介(岳父) |
| 宗教 | カトリック教会 |
| 当選回数 | 5回 |
| 在任期間 | 1947年4月5日 - 1967年4月22日 |
その他の職歴 | |
| (1946年1月25日 - 1947年) | |
内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年〈明治23年〉2月28日[1][2][3][4] - 1971年〈昭和46年〉11月19日[5])は、日本の外交官・政治家。神奈川県知事(官選、公選第1・2・3・4・5代)、テレビ神奈川初代社長。位階は正三位。日本の国際連合加盟に貢献をした人物として知られる。元丸紅ブラジル会社副社長の内山勇は三男。
- ^ 近代出版社「現代知事論」編集室 1960, pp. 59–64.
- ^ 日本経済新聞社 1964, pp. 9–13.
- ^ 神奈川新聞社 1968, pp. 19–25.
- ^ 内山岩太郎先生を偲ぶ会記念出版刊行委員会 1972, pp. 48–50.
- ^ 内山岩太郎先生を偲ぶ会記念出版刊行委員会 1972, pp. 81–84.