掲載時肩書 | シティバンク在日代表 |
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掲載期間 | 1997/04/01〜1997/04/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1929/02/14 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 三高 ,東京大学大学院 |
入社 | スタンダード・ バキュームオイル |
配偶者 | 中学友人紹介娘 |
主な仕事 | 日米学生会議、エッソ、エクソン、本社会長特別補佐、エッソ日本社長、シティバンク日本社長、長銀、新生銀行 |
恩師・恩人 | 木内信胤 |
人脈 | 今井敬/津島雄二/豊田達郎(一中)、井村祐夫、竹村健一(京都)、明石康(東院)佐々淳行、両角良彦、出光昭介 |
備考 | 外国企業経営40年 |
1929年(昭和4年)2月14日 – )は東京生まれ。実業家。エッソ日本社長、シティバンク日本社長。元新生銀行取締役会長。破綻した日本長期信用銀行を立て直すため、2000年(平成12年)に新生銀行の会長兼社長として招聘された。従前の長銀は法人向けのホールセールが中心であったが、普通銀行に転換した上でリテール攻略に大きく舵を切り、2004年(平成16年)2月には株式の再上場を果たした。
1.木内信胤さんの人柄
東大の大学院時代、私が人生や人格形成などで大きな影響を受けた方に出会った。世界経済調査会の理事長だった木内信胤さんだ。1954年、その調査会に伺ったが、事務所は日銀本店近くの常盤橋の角にある木造の二階建てだった。旧満鉄調査部や東亜同文書院出身の人たちが、地味な調査活動をしていた。
木内さんは55年6月に理事長になられたが、母上が三菱財閥創始者の岩崎弥太郎の娘、奥様は福沢諭吉の孫という、近代日本の名門出だった。旧横浜銀行で調査・外国為替畑を中心に歩かれ、英国、ドイツ、中国にも長く駐在された。終戦時には同行の総務部長兼調査部長の職にあった。渋沢敬三氏の義兄という縁もあり、終戦後、渋沢さんが日銀総裁から幣原内閣の蔵相に就任されたのに伴い、大蔵省の終戦連絡部長を福田赳夫氏から受け継がれた。その後、吉田内閣時に新設された外国為替管理委員会の委員長に就かれた。
歴代首相の経済指南番と言われたが、吉田茂、池田勇人の経済政策を強く批判したこともあり、外為委員会の解散と共に野に下った。豊かな実体験を基に、経済の動きを澄んだ目で見つめて評論する木内さんの姿に、私は大学では味わえないさわやかな気分と、強い迫力を感じた。誰に対しても決して威張らず、若者にも対等に接しておられた。56年に海外の経済調査をされる際、私を連れて行ってくださった。
2.日米契約の違い
私がエッソ石油の重役など日米両国にまたがる仕事をしていると、両国の契約についての考え方がまるで違うことに驚かされた。米国式は、問題が起きることを前提に予測可能な様々な対応を規定しており、紛争をどこの裁判所に持ち込むかまで決めている。だから長期的な契約では、簡単な電話帳ぐらいの厚さになってしまう。これに対し日本式は、今までの関係を将来とも維持することを前提とした精神的色彩が濃い。
日本的契約の典型は、エッソが1953年来、現在も続けているトヨタ自動車との潤滑油の長期契約だ。これはエクソンにとっても世界最大の潤滑油契約だが、基本契約は「エッソは最高品質の製品を競争価格でトヨタに提供する」「トヨタはエッソから買うことに同意する」「問題が生じた時には、お互い誠意をもって解決に努力する」と、大切なことだけが書かれている。かって契約更新時に、私はこの簡潔さに驚いた。
逆に、米国式の強引さの後始末に苦労したこともある。エッソ専務時代の旧国鉄との関係修復だ。私の入社前の第一次スエズ動乱(56年)のころ、スタンバックは北海道のディーゼル機関車用燃料を供給していたが、ペルシャ湾からの海上輸送運賃高騰で、担当者が値上げをお願いした。しかし国鉄側からは「燃料費は年次予算で決まっているから、来期までは無理」との返事だったため、米国人マネジャーは「それなら供給ストップだ」と部下に指示したという。その結果、道内の国鉄向けに2割ほどあったシエアはゼロになってしまった。この関係悪化を修復するのに、2,3年続けて陳情した結果、やっと2%ばかり回復した。
3.世界大企業の石油会社から金融会社に移って
シティバンクでの新しい生活が1989年1月から始まった。業種は全く異なるが、エクソンもシティバンクも米国を代表する大企業だから、経営責任者としての役割に戸惑うことはなかった。ただ、銀行仕事の内容が十分頭に入るのに1年半から2年を要した。
銀行に入って3か月後の時だ。来日したジョン・リード会長から「日本でリテール(個人金融)部門を成功させるには、どのくらいの投資が必要か」と聞かれた。しかし、銀行でいう投資が「赤字」を意味するのを理解するのに数分かかった。石油でいう投資は長期の資本的設備に対してだが、銀行では赤字をいくら出せば安定した黒字に転換できるか、ということだ。
私はシティバンクが、国内に数百の支店を抱える都市銀行を相手に、同様の商品・サービスで勝負していては永久に勝てない、と思った。幸い、香港のシティバンクでは外貨預金という固有商品を取り扱っていた。そこでまず外貨の種類を増やし、金利と為替の差益も期待できる外貨預金に力を入れることにした。また、日本からの海外旅行者が増加の一途であることに注目し、顧客が日本の円預金口座から海外どこでも、いつでも現地通貨で引き出すことが出来れば、とも思った。これを1年後の91年夏に実現した。これがシティバンクの目玉商品の一つとして、日本で好評をいただいており、発案者の一人としてうれしい限りだ。