掲載時肩書 | 侍従長 |
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掲載期間 | 1977/04/26〜1977/05/26 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1905/06/29 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 学習院 |
入社 | 学習院講師 |
配偶者 | 岩崎弥太 郎孫娘 |
主な仕事 | 学習院教授、29歳侍従、終戦、訪欧、訪米、64歳侍従長、寄席、義太夫、清元、長唄、新内 |
恩師・恩人 | 山田康彦(友) |
人脈 | 明治38会(石川達三、辰巳、島田正吾)、永井荷風土地、堀辰雄、小泉信三、 |
備考 | 先祖冷泉家、父も侍従長、広い交遊 |
1905年(明治38年)6月29日 – 1985年(昭和60年)9月29日)は、日本の官僚、歌人であり随筆家である。昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。堂上華族の入江家出身。歌人・柳原白蓮の甥であり、元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は相政の義弟にあたる。相政は父譲りの能筆で、他から頼まれて自作の和歌などを書くことが多い。1957年(昭和32年)5月、初の随筆集『侍従とパイプ』(毎日新聞社)を出版し、エッセイストとしての活動を始める。1960年(昭和35年)11月27日、自作の長唄「朝顔」の初演を聞く。
1.明治38年の三八会
私が生まれたのは、麻布の根津美術館に近い所である。時は明治38年6月、日本海戦に大勝利をおさめた直後のこと。この年生まれのゆえに私は、三八会という会員になっている。石川達三、玉川一郎、稲生平八、福田久雄、辰巳柳太郎、島田正吾その他会員は、揃いもそろってみんな陽気である。もちろん私も込めての話であるが、この陽性は、どうもあの勝ち戦の、胎教のために違いないと、いつも思っている。
2.昭和天皇のお人柄
①戦後の食糧難時代、両陛下の召し上がるものぐらい、何としてでもしてあげられたが、「みんな食べるものがなくて苦しんでいるのに」と、ちっとも召し上がらない。たとえば3品上げても、一品だけでおすませになり、一品は女官、一品は侍従にくださった。この一品をまた2つに分けて、吹上の御文庫にいる侍従二人でいただいた。
②21年(1946)1月から、地方巡幸をお始めになった。戦争中の労苦をねぎらい、これからの復興を頼んで来ようというお考えである。神奈川2日、群馬、埼玉は1日、いずれもお日帰り。そして田植えのころの千葉県で初めてご一泊された。千葉市内の、戦災地をお歩きになった。大工が、戦災者のためのバラックを建てていた。傍にお寄りになって「材料はあるか、釘に不自由はないか」などをおたずねになった。
③大阪巡幸の際では、文楽は大阪の魂、これに触れていただかないことには、というので、ご覧になった。同じことならと、京都の大宮御所で、当時京都在住だった、谷崎潤一郎、吉井勇、新村出、川田順の4人から「大阪の心」というような座談会風の進講をおききになった。
④福岡県の巡幸では、校庭が奉迎場だった。打ち合わせの時の話では、160頭の牛を並べるという。「陛下は、偏頗(へんぱ)なくすべての牛をお撫でになるから、160頭では多すぎる」と言ったら「では、二列にしましょう」という。また「この地方自慢の牝牛をつれだしたい」ともいう。「人混みに置いても大丈夫ですか」と訊くと「大丈夫」と。
本番。やはり陛下は第一列の80頭にすべてをお撫でになった。黒牛の目と目の間には、白い毛の所がある。そこを静かにお撫でになる。横に立っている青年は、自分が撫でていただいているような」面持ち。あくる日の新聞によれば、土地の人は「牛の方かよか」と言ったとか。
3.陛下訪米に随従
昭和50年(1975)秋、米国のウィリアムズバーグ空港にもシカゴ郊外のバルツ農場にも、陛下を、あの太平洋戦争の仕掛け人と考えて、恨みを込めて、睨みつけてやろうと思って、出ていた人があった。ところがそれらは皆、陛下のお姿を見て、これはあの戦争には無関係の人であると思ったという。
飛行機のタラップを、胸を張って、ヒットラーのような人物が降りてくるに違いないと思った。ところが全然異質の、あるいは正反対の挙借に、驚き入った。そして等しく、この気のよさそうな、優しげなおじいさんは、戦争とは全く無縁の人である、と。この印象や感想は、アメリカ人のすべてに共通であったらしく、それが転がり転がって、大歓迎の空気を盛り上げた。そういう人々の気持ちを汲み取ったのであろう、ニューヨークタイムスは、6日間連続トップに扱ってくれた。一人の人、一つの事件については、1回以上絶対に扱わないという新聞としては、全くの異例のことだった。
いりえ すけまさ 入江 相政 | |
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『侍従とパイプ』著者近影(毎日新聞社、1957年) | |
生誕 | 1905年6月29日 日本 東京府東京市麻布区笄町(現・東京都港区西麻布) |
死没 | 1985年9月29日(80歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学文学部 |
職業 | 学習院講師(1929-1933) 同教授(1933-1934) 侍従(1934-1968) 侍従次長(1968-1969) 侍従長(1969-1985) |
配偶者 | 入江君子 |
親 | 父:入江為守子爵 母:入江信子 |
受賞 | 従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章、イタリア共和国功労勲章カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ |
入江 相政(いりえ すけまさ、1905年〈明治38年〉6月29日 - 1985年〈昭和60年〉9月29日)は、日本の官僚、歌人であり随筆家である。
昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章・賞杯。
堂上華族の入江家出身[注釈 1]。歌人・柳原白蓮の甥であり、元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は相政の義弟にあたる。柳原前光の孫である。
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