掲載時肩書 | 日立製作所相談役 |
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掲載期間 | 1969/07/23〜1969/08/21 |
出身地 | 福岡県神興 |
生年月日 | 1986/03/01 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 83 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | 小倉工業 |
入社 | 久原鉱業所 |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | 電線工場、軍納部長、笠戸工場長、日立製作所、労働争議(44000人から5555人を解雇案) |
恩師・恩人 | 小平浪平 |
人脈 | 出光佐三(同村)、安川第五郎(日立同期)、河合良成 |
備考 | 家:酒造→製紙業、人間魚雷「回天」製造 |
1886年3月1日 – 1969年12月25日)は福岡県生まれ。実業家。株式会社日立製作所元社長・会長、日本科学技術振興財団初代会長、毎日放送元取締役。公職追放された初代社長小平浪平以下取締役16名の後を継いで、1947年に日立製作所二代目社長に就任。更には日立製作所会長退任後、退職金を投じて財団法人国産技術振興会(現倉田記念日立科学技術財団)を設立するなど、産業の国産技術確立に貢献した。弟には俳人の神崎縷々、三井鉱山社長を務めた倉田興人がいる。
1.日立鉱山の生活
私は明治45年4月、久原鉱業の日立製作所に入社した。日立創業の最初は、久原鉱業所日立鉱山の機械修理工場(41年発足)であったが、創業者の小平浪平氏が久原鉱業所の総帥久原房之助氏を説得して、電気機械製作所として鉱山から独立させたのである。私は入社すると日立鉱山に配属となった。
ここでは金が一銭も無くても生活できた。食事は寮で支給されるし、日用品は水戸から小間物屋や食品店が出張販売に来るが、請求は会社に出す。また社内に供給所というのがあって米から味噌、しょう油、酒にいたるまで販売するが、これも伝票で足りた。福利施設は、これは日立鉱山が徹底していた。従業員が増えるにつれて学校をつくり、病院をつくり、劇場を建てた。学校は鉱山が3校、製作所が1校つくったし、劇場は共楽館といって関東以北にこれ以上はないという立派なものだった。こうして会社を中心とした集落ができ、やがてそれが町へ市へと発展していったのである。
2.小平浪平所長のひと言
大正5年(1916)秋ごろ、故郷へ帰って休養していた私のところに、日立の小平所長から突然「新規の計画があるからすぐ帰れ」という電報が来た。直ぐに帰社し私がおうかがいすると、小平さんは「おお来たか」と待ちかねていたように迎えて「お前がかねがね言っていた電線製造に日立製作所が踏み切ったからやれ」とヤブから棒に言った。耳を疑った。この電線製造メンバーの一人に加わるくらいと思っていたからだ。
小平さんは、産業技術の自己開発こそが、日本経済成長の原動力であるという固い信念を抱いていた。したがって小平さんが「やれ」という以上、電線製造の出来上がった機械をよそから買って来てはいかぬということなのである。私は思いあぐねて「さぁ、できましょうか」と心細い返事をした。
と、日ごろから尊敬する小平さんは「お前なら出来るからやれ」と言った。力強い声だった。私はその瞬間、電気にかかったようになった。私は「ではやってみます」と答えた。小平さんの言葉がうれしくて、あるいは声が震えていたかもしれぬ。私はその瞬間から小平さんを絶対信頼した。そしてこれこそおれの一生の仕事だと心に決めたのであった。
3.人間魚雷「回天」の製造
昭和16年(1941)10月私は取締役に就任し、山口県の笠戸工場に責任者として赴任した。軍の都合で笠戸工場で造ったのが、映画にもなった人間魚雷「回天」である。20年に入ると本土決戦に備えて、海軍は日本の海岸線に人間魚雷を配置して米艦に体当たりする計画を進め、笠戸工場を海軍管理工場にしてその製造を命じてきた。最初の人間魚雷は一人乗りで乗務員は生還できないものであったが、天皇陛下の「絶対に死ぬというのではいかぬ、成功したら帰れるようにしろ」というお言葉があって、艇の両側に魚雷を2本抱き、真ん中に自爆装置を付けた二人乗りに設計が変わった。二本の魚雷を発射して敵艦が沈めば成功するが、命中しない場合は自爆装置を使って体当たりするというものである。笠戸工場は、終戦までに15隻ぐらいこの人間魚雷を造った。
4.戦後の労働争議の凄さ
昭和22年(1947)春、小平社長以下16人の日立首脳陣はGHQから追放を受けた。残された役員のうち58歳の私が最古参だった。私はその年の1月常務になり、わずか2か月後の3月1日、社長に就任した。私が社長に就任したとき、日立製作所は約4万4千人の従業員を抱えていたが、正常な操業をしていたのは笠戸工場だけで、他の工場群はナベ、カマ、あるいは海水から塩をつくり、果ては菓子やアメまでつくって、かろうじて糊口をしのぐありさまであった。
昭和25年(1950)4月5日、組合は大幅賃上げ要求を提出してきた。私はこの要求に答えるに、経営の現状説明と5,555人の人員整理案をもってした。先鋭化している組合を相手にこの回答を出せば大争議に発展することは目に見えていたが、もとよりそれは覚悟の上だった。こうして戦後の労働争議史に残る日立の争議は始まったのである。
5月25日、被解雇者の氏名を発表すると組合員の激怒は最高潮に達した。被解雇者に個人通告をしようとする部長、課長を取り囲んだ組合員は怒声を浴びせ、こづく、ける、なぐるなどの暴力行為を働いた。また、会社幹部に対する組合側の吊るし上げは、いまでは想像もつかないひどいものだった。
「熱砂の誓い」というのがあった。暑い盛りに工場長を運動場に引っ張り出して、組合員が人垣でつくったコースを、一人が工場長に赤旗を持たせて引っ張り、2、3人が尻を叩くようにして走らせる。中継点まで来ると次の組にリレーして工場長をまた走らせる。組合の方はどんどん代わるが、工場長は一人でぶっ倒れるまで走らされる。それを組合員たちは手を叩いて、ヤジを飛ばして見守るのである。
また「ダルマ落とし」というのがあった。ドラムカンを立ててその上に工場長を立たせ、その回りを何百人もの組合員が取り囲む。前の方には比較的善良な交渉員がいて工場長と交渉に入るのだが、その後ろにいる者が、何か気に入らぬことを喋ると、やにわにドラムカンを蹴り倒す。工場長はドラムカンとともに転がり落ちる。すると後ろにいた乱暴な連中が叩く、蹴る、つまむという乱暴を働くのである。工場長は全身に黒い打撲傷を負い、昏倒する、これが一番ひどかったと思う。警察にあげられ、何人かが裁判にかかり、有罪になっている。
またある工場では、交渉中に組合員からひたいに火のついたタバコを押し付けられて火傷をした者があり、中二階の窓から放り出された総務部長もいた。ある工場では会議室で交渉していたら天井から雨が落ちてきた。雨かと思ったら、これ汚物だったというのである。天井に肥おけを担いでいって、ぶちまけたのであろう。組合はこれを「雨のブルース」と呼んだかと思う。
日立工場では副工場長が応接室に閉じ込められ、二日間も食事ができず、便所にも行けないという状態になった。回りをはしごや縄梯子をもって、ちょうど消防訓練のような装備をした何百人もの組合員に取り囲まれている、という情報が入った。それを聞いた私はすぐ車で水戸に飛び、警察に連絡を取って救出するという一幕もあった。
こうした労使対決のストが60日余も続き、8月10日に会社の勝利で終わったが、私には喜びはなかった。何とも表現のしようのない寂莫としたものが心に拡がっていた。