掲載時肩書 | 雪印乳業社長 |
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掲載期間 | 1959/11/17〜1959/12/12 |
出身地 | 北海道札幌 |
生年月日 | 1898/02/14 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 61 歳 |
最終学歴 | 北海道大学 |
学歴その他 | 札幌中、オハイオ州立大修士 |
入社 | 父と酪農取組み |
配偶者 | 宇都宮仙太郎(紹介娘) |
主な仕事 | オハイオ州立大、酪農(自立)北海道製酪>連合組合>興農公社>株式会社 販売組合、北海道興農公社>雪印乳業 |
恩師・恩人 | 由布先生、ヘッケルマン師、ロジャーズ夫妻 |
人脈 | 尾崎収二、出納陽一、酪農組合:宇都宮(会長)黒沢酉蔵(専務)、佐藤善七(父:常務))、瀬尾俊三、町村敬貴、 |
備考 | 柔道・剣道 |
1898年(明治31年)2月14日 – 1999年(平成11年)9月26日)は北海道生まれ。大正時代から昭和時代の北海道の経営者・教育者。北海道興農公社の設立に関わり、後身の雪印乳業の初代社長を務めた。また、長らく学校法人酪農学園の理事長を務めた。1925年、父・善七が設立者の一人であった有限会社北海道製酪販売組合の技師となり、雪印の名で「北海道バター」を製造販売。1950年企業分割で雪印乳業株式会社が設立されると同社代表取締役社長となる。また、北海道テレビ放送(HTB)の取締役も歴任した。1966年酪農学園大学学長・酪農学園大学短期大学部学長・学校法人酪農学園理事長に就任。1982年からは学校法人酪農学園学園長も兼務した。
1.米国大学で柔道披露
大正8年(1919)、米国オハイオ州の州立大学に入学した。当時のオハイオには日本人の学生はほとんどいなかった。それで珍しがられ、入学後間もなく大学の25周年祭があり、日本の柔道を見せてくれと要請された。でも中学で柔道をやっただけなので躊躇したが、結局、たっての頼みで引き受けてしまった。
おりよく、そのとき早稲田を出た尾崎収二君がいたので、その尾崎君と二人でやることにし、シカゴにあった日本人の柔道の道場に電報を打って柔道着を取寄せた。日本人同士なので八百長はあったが、その日の私たちの柔道は大いに受けた。その後も州の祭りにも出演を要請され、やはり尾崎君とコンビで出た。
屋内コロシアムに溢れる3万5千人ほどの大観衆の前で、私たちは熱演した。熱演というのは、演出効果を考えて転ぶときにマットをドンと鳴らし手高い音をたてたりしたからだ。そうとは知らぬ観衆は、総立ちになって「サトー」「オザキ―」と声をからしたものである。これで日本柔道は一躍有名になり、英雄になった。
2.北海道に電灯を敷く
大正12年(1923)2月に帰国した。父と話し合い二人で酪農をやることにした。父は札幌で米人の宣教師と親しく付き合っていた関係もあって、寒い北海道の農業は米作などの穀類農業は不向きで、米国のように酪農を盛んにしなければならんという信念を持っていた。私もこの信念に一致していたからだった。
農場に住宅を建てるとき、電灯がなくちゃというわけで全面配線工事をした。ところがこの私の計画を隣近所の農家が知って「電灯をつけるなら、ついでに一緒につけてくれ」と言ってきた。しかし、自家発電も共同になると難しい規則に縛られたので、電気会社と交渉を始めた。電灯をつけたい弱い側とつけてやる強味側は最初から勝負にならない。電気会社側は強気に出て電線や電柱の敷設費や電気料金も札幌より1割高だという。私は大いに憤慨し、豊平川の利用による自家発電計画を立てて道庁に掛け合ったら「組合をつくって共同事業でやれ。もし成功したら札幌全市をそれに加えろ」とネジを巻かれた。
組合の結成にはみんな快く調印してくれたが、この動きはたちまちに電気会社に漏れてしまった。水野社長や星野重役もきて「あなた方の主張は何でも聞くから、是非当社にやらせてほしい」と懇請された。そして最終的には、「工事費はタダ、料金も札幌並み、10月までに完成させる」で決着した。工事は順調に進み、約束より2週間も早く電灯がついた。パッとついた電灯を見た時、私は感動で胸いっぱいになった。
3.北海道酪農組合(後の雪印乳業)の発足
大正14年(1925)5月、組合が誕生した。7月の24,25日ごろからバター、アイスクリームを作り始めた。我々の組合は、宇都宮仙太郎さんが会長、黒沢酉蔵さんが専務、父の佐藤善七が常務になり、あとは平理事で私は技師ということではいった。技師といっても、仕事をするのは私一人で、製造も技術も販売も全部一人でやったので、目の回るほど忙しかった。月給はいくら貰ったか覚えていない。その頃日本には年に60万から65万トンのバターが輸入されていた。舶来崇拝時代のこととて、食べる人も売る店も、輸入品でなければいけなかった。その舶来バターに勝つためには、品質の点でも価格の点でも優位に立たねばならない。それには個々の農村でつくるのをやめ、一日も早く近代設備を設けて一本にする必要があった。