掲載時肩書 | 東芝相談役 |
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掲載期間 | 1998/06/01〜1998/06/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1919/02/28 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 武蔵 |
入社 | 東芝 |
配偶者 | 東大教授娘 |
主な仕事 | カラクリ儀左エ門発祥、GE駐在員、 ICI社外役員、東芝機械事件、 |
恩師・恩人 | W・スペクト(GE) |
人脈 | 宮澤喜一(高校)、今井敬、小林宏冶、石坂泰三社長、石井好子、森有正、土光敏夫、ジョン・H・ジョーンズ(ICI)、八尋俊邦 |
備考 | クリスチャン、父・牧師、母・植村正久牧師娘 |
1919年(大正8年)2月28日 – 2012年(平成24年)9月10日)は東京生まれ。実業家、元東芝社長・会長。1982年(昭和57年) – 電気学会会長、日本インダストリアル・エンジニアリング協会会長に就任。日本経済団体連合会副会長、日本電子機械工業会(現・電子情報技術産業協会)会長、ボーイスカウト日本連盟理事長、日本機械工業連合会会長、日本銀行参与、石川島播磨重工業取締役、阪急百貨店監査役などを歴任した。
1.東芝の起源
東芝は西暦2000年には創立125周年を迎える。明治8年(1875)、田中久重が当時文明開化のはしりとして開発された銀座煉瓦街の一角、今の銀座8丁目1番地に田中製造所を設けたのを創業としている。
田中久重は「からくり儀右衛門」として知られた幕末の発明王で、官営事業をつかさどった工部省の注文で電信機の製作に着手し、これに成功したのを機に、煉瓦建ての店舗を銀座に設けたのだった。初期の注文は専ら工部省向けの電信機が主体であったようだが、その後海軍の注文で水雷も製造するようになり、明治15年〈1882〉敷地1万㎡の工場を芝浦(現東京都港区)に建設した。
経営難のため三井銀行の傘下に入ったのが明治26年〈1893〉で名称も「田中製造所」から「芝浦製作所」に改められた。そして昭和14年(1939)、東京電気との合併による「東京芝浦電気」、今日の「東芝」へと繋がるのである。
2.航空士官学校の終戦8月15日
昭和20年〈1945〉8月、航空士官学校の通信演習があった。私は信州・上田で演習の他に、その合間を使って生徒に通信工学を教えた。演習期間中、広島、長崎に原爆投下の知らせがあった。
そして8月15日。生徒を集めてラジオに耳を傾けた。雑音で聞き取りにくかったが、戦争終結ということだけは分かった。しばらくは誰も口を利かなかった。学校本部からは現地にとどまれとの指示が来た。しかし、私は勝野、原という二人の大尉と相談して、至急生徒と共に帰校することにした。
航空士官学校は血の気の多い青年将校の集団である。本校では玉音放送の最中、一人の将校が激高して軍刀でスピーカーのコードを叩き切ったという。一部生徒を引率し、軍の中央部に乗り込んだ者もいた。ある大尉は「君側の奸を除く」と称して、皇居を守る近衛師団長を惨殺するという事件まで引き起こした。
私たちが学校に戻ったのはそんな騒然とした状況のさ中だった。ある将校は武器を持ち出し山に籠って抗戦すると主張した。海軍の飛行機が飛んで来て決起を呼びかけるビラを撒いていった。しかし、近衛師団長事件を起こした大尉が校内の航空神社境内で、同期の将校の介錯を受け、割腹したあたりから雰囲気も落ち着いてきた。
3.トーマス・エジソンの信条
岩田弍夫さんの後を継いで東芝社長に就任したのは昭和55年〈1980〉6月だった。米国に出張したある日、ニュージャージー州にあるトーマス・エジソン記念館を訪れた。東芝の生い立ちの一半はエジソンが発明した白熱電球に端を発しているし、GE社もエジソンの事業に創業の源をたどることができる、そんな思いの訪問だった。
そこはエジソンが亡くなるまでの研究所として使っていた所で、当時の研究室や試作工場などがそのまま保存され、一般に公開されていた。日本から、炭素電球のフィラメントに石清水八幡の竹が使われていた縁から大きな石灯籠が寄贈され庭に据えられていた。研究室内にはエジソンの発明になる蓄音機や活動写真機など様々なものが置かれていた。
そんな中で特に私の注意を引いたのは、研究室や実験室の壁に掲げられた額入りの短い標語だった。同じ文句のものが余りにもここかしこに掲げられているので注意してみると、それは「考えるという本当の意味の労苦を避けるために人の取らない便法はない」という意味の言葉で、18世紀の英国の肖像画家、ジョシュア・レイノルズの言葉であることが分かった。
頭を使う、考える、ということには努力が要る。額に汗する労働にも似た厳しさがある。人はいろいろな言い訳を自分に設けて、このハードワークから逃避しがちなもの。そういうことを、エジソンは自分の長い発明家としての歩み中で実感を持って体得し、研究室の人たちへの戒めの言葉としたのだろう。