掲載時肩書 | イトーヨーカ堂名誉会長 |
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掲載期間 | 2003/04/01〜2003/04/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1924/04/30 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 横浜市立大学 |
学歴その他 | 横浜市立商業 |
入社 | 三菱鉱業 |
配偶者 | 金子>伊藤(母が再婚して)、見合い |
主な仕事 | 羊華堂、土地賃貸方式、バーコード、デニーズ、7-11、サウスランド、総会屋、謝恩育英財団 |
恩師・恩人 | 伊藤譲(異父兄),関口寛快、三井銀行 |
人脈 | 鯨岡兵輔、岡田卓也、滝田実、小倉昌男、鈴木敏文、西川俊男、小山五郎、盛田昭夫、松下幸之助、高橋荒太郎、p・ドラッがー |
備考 | 母が商人道を、兄は商売の師 |
1924年4月30日 – )は東京生まれ。実業家。1958年ヨーカ堂(現イトーヨーカ堂)を設立し、同社代表取締役社長に就任。1973年ヨークセブン(現セブン-イレブン・ジャパン)を設立し、同社代表取締役社長に就任。同年デニーズジャパンを設立し、同社代表取締役社長に就任。1978年セブン-イレブン・ジャパン会長、1978年日本チェーンストア協会会長。1981年デニーズジャパン会長。
1.異父兄・伊藤譲
母が商人の鏡なら、異父兄伊藤譲は私にとって商人の師であった。兄がいることを知ったのは5歳の時で、兄は18歳だった。兄は母の弟(吉川敏雄)がやっていた洋品店をのれん分けしてもらう形で、1940年に浅草で店を持った。それが羊華堂・浅草店である。独り立ちした兄は、今度は母と私を引き取ってくれた。既に戦時色一色で統制が始まっていたころだ。真面目で働き者の兄は、絶対に仕事に手抜きをしない人だった。「開店の時は誰しも神棚にお供えをして拝む。祈るような真摯な気持ちをいつまでも忘れないことだ」。人生とお客様と仕事への真摯さを、私は兄から学んだ。
統制下の商売は楽でも、売るものがなくなってくれば生活は苦しい。結婚して夫婦と子供が3人、それに母と私の大家族だったから、食べるのに精一杯だったはずだ。体が弱くて兵隊には行かなかった兄は、志願して曙ブレーキなどの軍需工場に働きに出た。そんな環境の中で、自分は小学校しか出ていないのに、父親が違う私に上の学校に行けと勧めてくれた。商業学校で終えるつもりだった私が専門学校に進めたのは兄のお蔭である。月々の学費と下宿代は当時の専門学校出の初任給に相当する50~60円はかかった。兄の収入の三分の一ぐらいを私が使っていたことになる。
自分は不条理な運命に弄ばれながら、人間はそこまで人を思いやり、温かくなれるのか。誠心誠意の無私の人、兄は戦後、羊華堂が年商一億円になり、これからという時に44歳で亡くなる。氷雨の中、軍用コートを荒縄で縛り付けた兄が喘息でせき込みながら、自転車を懸命にこぐ姿が目に焼き付いて離れない。
2.商売の原点
終戦後、母と兄が商売を再開したのは足立区千住だった。東京の下町でも浅草や上野が商業の一等地なら、千住は二等地以下だろう。千住は商店街を抜けると田畑が広がる場末の商業地だったが、戦災は比較的軽く、後背地が拡がっていた。周囲は菓子や履物、雑貨などの町工場が集まった職人や工員の多い町で、国鉄常磐線、東武伊勢崎線で郊外と繋がっていた。
中華そば屋の軒先を借り、戦災を免れた行李一杯のメリヤスの下着を元手に、母と兄が始めた2坪(6・6㎡)の店に転がり込んだのは、私が21歳の時だった。物のない時代。統制が続く闇市の全盛期でもあった。闇に手を出さなかったと言えばウソになるが、羊華堂は正札販売を貫いた。しかも、1ダース売って2枚分の儲けという意味の「2枚儲け」(粗利率17%)は、一般の小売価格より2割は安かった。「お客様あっての商売」という母と兄の信念が支えだった。闇でボロ儲けした人は気が付くと多くが消えていた。
移転を繰り返して店が大きくなり、店員も増えていく。兄は「仕入れと勘定は人に任すな」と言って、帳場と仕入れは私が受け持たされた。電話帳で売ってくれる先をしらみつぶしに調べ、浅草橋や横山町の問屋に毎日自転車で通った。売れた分だけ仕入れる。1日1回転の商売だった。問屋は実績のない客には現金でしか売らない。その商品を薄利で売るのだからミスは許されない。一度、暖冬で1万足仕入れた足袋が5千足売れ残る失敗をしたが、値引きでさばくという安易な商売はできないことが身に染みた。ヨーカ堂は、創業以来、商品仕入れに手形を切っていない。
3.私と鈴木敏文氏
創業者のトップ交代は難しい。私は65歳を区切りと考え、以前から次期社長は鈴木敏文副社長(現社長)と心に決めていた。ヨーカ堂グループにとってかけがえのない存在になったセブンイレブンは、鈴木社長でなければここまでの成功はなかったろう。個人事業主である1万人に近いフランチャイズ店のオーナーさんをきちんとした契約を結び、分かりやすい方針を示して説得し、反復して指導する。鈴木社長がシャカリキになって進めた「業革」が、一店一店間違いのない店づくりを心がけた伝統と一緒になって、厳しい経営環境の中で何とかヨーカ堂がもっている理由だろう。
私は中小企業経営者の恐怖心と、世の中から生かされているという感覚が人一倍強い人間だ。大組織の統率に必要な論理(ドグマ)と冷徹さは経営者の大事な要素であり、私にはないものを天才肌の鈴木社長は持っている。人生観が違うように、経営者として負った”業“の種類も違う二人が、足りないものを補い合ってやってきた。世間では「商人の伊藤とテクノクラートの鈴木は水と油」と言われるが、”情“と”理“の違いだろう。うまくいかないのが当たり前の世の中で、うまくいったのだから稀有なことではある。
4.ドラッガー先生
先生とはもう20年近く、自宅に招待し合う家族ぐるみの交際を続けている。お互いに訪問し合った時に、お話をうかがうのが何よりの楽しみだ。経営者というより経世家の先生は、市場を見る「虫の目」と「歴史の目」、世界を鳥瞰する「鳥の目」で、時代の先を見る目を持たれた方だ。私に時代の潮目を読み取る目があったとすれば、先生の謦咳に接したお陰と思う。
服装や食べ物、住宅には無頓着で生活は極めて質素だ。唯一の贅沢はロンドン時代から始められた日本画(墨絵)の収集ぐらいだろう。先生の温かい人間性に触れたのはその陰徳を知った時である。NPO(非営利組織)のボランティアに贈るドラッガー賞というのがある。刑期を終えた人が運転免許を取得して正業に就けるように支援する団体などを表彰、支援している。ドラッガー先生を通じ、多民族社会の米国が適者生存の厳しい競争社会の半面、弱者に手を差し延べる人間的な社会であることを知った。生き馬の目を抜くウォール街が少数株主の権利を大切にするのも、先生が指摘された「年金革命」で大衆が参加した資本市場のバランス感覚だろう。次男の順朗(セブンイレブン取締役)はクレアモント大学の経営大学院に留学し、直接先生の薫陶を受けた。
氏は‘23年3月10日98歳で亡くなった。この「履歴書」登場は’03年4月の79歳のときでした。常に誠実・謙虚を貫きドラッガー氏を師と仰ぎ、他の経営者からの学びもノートにとっていた。この「履歴書」では次の言葉が印象に残った。
1.経営の重視順位
私は社是に掲げた言葉(私たちはお客さまに信頼される誠実な企業でありたい。私たちは社員に信頼される誠実な企業でありたい。私たちは取引先、株主、地域社会に信頼される誠実な企業でありたい)を繰り返し、念じ続けただけである。
お客様に信頼も満足もされない企業が満足に配当できるわけがない。株主上場後も、私の気持ちは、お客様、社員・・・の順で、株主は最後である」(『私の履歴書』経済人三十八巻 190、191p)
2.国民への提言
八十年近い人生で身に染み付いた思いは日々新たに確信の度を増している。それは、お客様は来て下さらないもの、お取引先は売って下さらないもの、銀行は貸して下さらないもの、というのが商売の基本である。だからこそ、一番大切なのは信用であり、信用の担保はお金や物ではなく人間としての誠実さ、真面目さ、そして何よりも真摯である、ということだ。
爛熟期を迎えた日本は成功の裏で大きなゆがみを蓄積したまま、考えられないほど豊かになりすぎたのではないか。政治や行政、金融などゆがみは様々だが、根っこにあるのは人間の問題だと思う。
日本人は食べられることの有り難さを忘れ、自分たちがいかに贅沢をしているのに気づかず、それを当たり前と思い込んでいる。驕れる者久しからず。感謝の心を忘れ、己の力を過信する者の末路は、洋の東西、時代の今昔を問わない。そういう私自身、バベルの塔を上り詰めた愚か者ではないかと自問している。恐ろしいことが待ち構えているような気がしてならない。
日本人、そしてヨーカ堂グループの社員には、自分たちがいかに恵まれているかに思いをいたし、謙虚になって志を立て、明治維新、戦後改革に続く第三の創業に挑戦してもらいたい。そうすれば、必ずや、明るい未来が開けると確信している。(「私の履歴書」経済人三十八巻158,159p)
*日本経済新聞(3月14日付け)には下記の追悼文が掲載されていた。
独特の景況感を持ち、バブルの余韻が残る1991年ごろには「これまでに経験したことの無い不況が来る」と語った。その通りになり、空白の30年へと進む。多くの大手流通業がバブルで深い傷を負ったが、ヨーカ堂はその嗅覚で手堅い経営を守った。
92年に発覚した総会屋への利益供与事件では、経営者として責任をとるかたちでヨーカ堂社長を辞任した。一線からは退いたが、創業者としてグループの経営に影響を与え続けた。2016年のグループ内紛を受けた鈴木氏のセブン&アイ・ホールディングス会長退任には、伊藤氏の意向もあったとされる。
自身が保有する莫大な保有株の一部を拠出して奨学財団を設立。財団名に「謝恩」と付けたのは消費者から支持を得たから会社が大きくなったというだけでなく、創業時に献身的に働いた母と異父兄へのお礼の意味を込めた。(編集委員 田中陽)
伊藤 雅俊(いとう まさとし)