掲載時肩書 | 東洋パルプ会長 |
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掲載期間 | 1957/03/07〜1957/03/24 |
出身地 | 滋賀県湖東 |
生年月日 | 1886/06/12 |
掲載回数 | 18 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 英国ロンドン大学 |
学歴その他 | 県立滋賀商業 |
入社 | 伊藤本店 (丸紅) |
配偶者 | 強制見合 |
主な仕事 | 渡米・英留学、伊藤忠商店(丸紅飯田)呉羽紡、伊藤忠商事(伊藤忠糸店)、東洋パルプ、カタカナ運動 |
恩師・恩人 | 真弓村晴、井上準之助 |
人脈 | 諸井貫一、平生釟三郎(文相:甲南大学:新日鉄),久原久之助、安宅弥吉、野村徳七 |
備考 | 右手不自由、 |
1886年(明治19年)6月12日 – 1973年(昭和48年)5月29日)は滋賀県生まれ。実業家。伊藤忠財閥の2代目当主である。父・初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した伊藤本店を発展させ、伊藤忠商事と丸紅という2つの総合商社の基礎を築いた。二代目忠兵衛はカタカナの使用を推進するカナモジ運動の草分けとしても知られ、また平生釟三郎の影響を受けて、それまでの知育偏重教育とは一線を画した、徳育・体育・知育の均衡のとれた教育に関心をもつに至り、甲南学園の経営に参加する。財団法人甲南学園の理事となり、甲南中学校、甲南小学校にも関与した。
1.新店員時代
県立滋賀商業を卒業して、明治37年(1904)5月5日に大阪本町にある伊藤本店、今の丸紅飯田株式会社なる関東織物問屋に入店した。ときに17歳、日露戦争が始まった年である。翌年から仕入れに回され、尾濃(愛知県の一宮、起、岐阜県の笠松、竹の鼻)係の次席であった。
その年の私の全収入は忘れもせぬ、一か年120円、つまり給料も賞与も入れてである。しかし、食事、宿泊、医薬、散髪、乗車など一切店持ちである。当時銀行や会社が一か月13円~15円、それから食事、宿料などを引くから年120円は決して安くない。今にしてうれしいのは支配人から、「あなたは研究熱心で人の倍働くから、他の同年輩の人の倍をあげてもいいのだが、周りもあり辛抱して欲しい」と言われたことだ。
半年で尾濃係の主任となり、洋犬印進歩セルという毛織物工場を兼営して、取り扱いの増加と利益を確保した。満19歳だったが、満20歳の徴兵は右腕の不具で免除になり、商域も広がったので大いに張り切った。
2.井上準之助氏の慈愛を受ける
私の一生を支配したものの一つに、外国行、ことに英国留学がある。1909年22歳のとき、英国留学を決意した。それにはまず、渡米することにした。父が明治21年(1888)に店を持ったサンフランシスコに上陸。
私の幸福は、このとき井上準之助先生に親にも勝る慈愛を受けたことである。当時、先生は日本銀行理事で、正金銀行監督官、大蔵省代理の財務官の栄位にあったが、弱冠わずか37歳だった。私は先生の学僕同様に同宿の扱いを受け、思想的に大きな影響を与えられた。先生は厳格であり、勤勉であり、いわゆる獅子が児に待つの指導であった。しかし私は英国留学が目的だったので、ついにその懐から逃げ出した。先生は餞別の言葉として、
「貴様はおれのいったことをよく覚えておけ。落日の英国、昇天の米国。そして生きた学問と死んだ学問の差を」と言われ、そしてこともあろうに、当時米国を旅行されていた瓜生外吉海軍大将の秘書になれと言われた。私はそのお言葉に従い、瓜生大将と10数日、行を共にして大西洋を渡ったのであった。
3.英国留学の成果
最初ロンドン大学へ行った。経済部で講義を受けたが、さっぱり分からぬ。全然意味がとれない。ところが下宿へ帰って教科書を読むと大体理解できる。これなら私は通学しなくても勉強はできると考え、本ばかりを買い入れて商売の方に精出した。ロンドンといえば世界の商売ができるところと思っていたのに、綿毛織物の商売はそうではなく、横浜、神戸の商館はその支店と思っていたが多くはエイジェンシーなのだ。ブローカーがマンチェスターやブラッドフォードの商品の仲介をやっているのを発見した。遂に意を決してブラッドフォードに移って直接取引の口火を切ったら手ごたえがあった。これで大きく利益を出すことができた。
また大収穫は、英国の金利利用で外国のファイナンスの活用をやったことである。当時英国は60日手形の割引が年利2分5厘、90日もので2分75厘なのに、日本では割引は日歩3銭5厘、正金銀行の輸入為替が利息1割1分見当でお話にならぬ。当時の三井物産、大倉組、飯田商会に確かめてその利用はやっておらぬ。そこで私は意を決し、香上銀行に相談して、英国の低金利利用による無為替輸入を断行して帰国した。輸入価格が1割以上安くつき金利が三分の一に減ったから商売は自然3倍となった。
伊藤 忠兵衛(いとう ちゅうべえ)とは、伊藤忠財閥(現・伊藤忠商事)の当主の名跡。2代で絶えている。 初代 伊藤 忠兵衛(しょだい いとう ちゅうべえ、天保13年7月2日(1842年8月7日) - 1903年(明治36年)7月8日)は、伊藤忠商事・丸紅という2つの大手総合商社を創業して、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成し、二代目 伊藤 忠兵衛(にだいめ いとう ちゅうべえ、1886年(明治19年)6月12日 - 1973年(昭和48年)5月29日)は、父・初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した伊藤本店を発展させ、伯父・六代目伊藤長兵衛が創業した伊藤長兵衛商店と合併し、伊藤忠商事と丸紅との2つの総合商社の基礎を築いた。