掲載時肩書 | 伊藤ハム栄養食品社長 |
---|---|
掲載期間 | 1979/03/31〜1979/04/25 |
出身地 | 三重県 |
生年月日 | 1908/11/19 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 海産物問屋 |
配偶者 | 郷里の幼馴染 |
主な仕事 | 伊藤食品工業、東京に夜逃げ、(セロハンウィンナー)、伊藤ハム栄養食品(兎、山羊、馬、羊)、「食肉技術学校」、生肉販売 |
恩師・恩人 | 一本松関電相談役 |
人脈 | 岸田兵庫知事、藤井深造、江崎利一、河野一郎、西山弥太郎(川鉄社長) |
備考 | マトンハムの大衆化に成功 |
1908年(明治41年)11月19日 – 1981年(昭和56年)6月22日)は三重県生まれ。実業家、現・伊藤ハム株式会社創業者である。神戸で伊藤が丁稚時代から夢見ていたハム・ソーセージの食肉加工業を開始。魚肉ソーセージから販売し、低価格と風味の良さが評判を得て大丸・阪急にも卸すようになる。当時飴や薬を包むセロハンを利用することで衛生的に、かつ破棄された端材を利用することにより低コストでソーセージを販売することを発案し、「セロファンウインナー」を販売し、夫婦二人で売り歩いた。既存のウィンナーと違い長さが均一であることから神戸のバーやカフエ等の飲食店から売り上げの計算が立てやすいと引き合いが殺到。人気を博した。後にマトンの大衆化を実現し、伊藤ハムの礎を築いた。
1.魚肉ソーセージの失敗から学んだ教訓
昭和7年(1932)、魚のにおいを抜くためにラードを使い、調味料は味の素、砂糖、胡椒を入れた。当時は畜肉の普通のソーセージより半値近い製品を出したところ、「安くておいしいソーセージとして」阪急、大丸などのデパートへ納入することに成功した。
ところが暫くすると返品が相次いだ。その原因は包装にあった。中身のソーセージを詰めるケーシング(包装)は豚腸、羊腸などを使っていた。この腸には小さな穴が開いていて、日がたって乾燥すると中から水気が漏れバクテリアが繁殖した。大失敗に見舞われたのである。デパートでは売れたものだけの代金はくれるが、残りは否応なしに返品してくる。返品や出来損ないのソーセージをリヤカーに積んで、真夜中に葺合区の生田川じりへ20貫、30貫と棄てた。運びながらこらえきれなくなって涙がポロポロこぼれた。
しかし結局、ソーセージの原料は畜肉でも魚肉でも、うまみが消えたり、蒸れて痛むのは温度管理しだいであることを知らされた。温度管理の技術を十分取得すれば、後は道具も設備もいらないことが分かった。
2.畜肉の技術改良で「プレスハム」を開発
伊藤ハムの基礎をつくった魚肉の「ニューソーセージ」は、昭和22年(1947)秋ごろまで主力品の座を続けた。23年に入ると、少しずつ豚肉が出回ると言っても、国民全体から見れば微々たる量で、ボンレスハム、ロースハム、ベーコンと言った単味品の加工食品が大衆の口に入るにはほど遠かった。やはりまだ一握りの人のぜいたく品に過ぎなかった。このわずかの豚肉を利用して、大量の美味しい加工食品を生み出す方法はないか、これがその頃の私の研究課題だった。
豚肉や牛肉に、価格の安い兎肉、山羊肉、馬肉を加えて美味しい製品を生み出す最大のポイントは脱臭、脱血の技術である。馬肉、山羊肉はにおいがきついのでハム・ソーセージにはほとんど使われていなかったが、私にとっては魚肉で苦労した経験があった。においをとるためには生肉を徹底的に水洗いすればいいのだが、その過程で生肉を蒸れさせたり、鮮度を落としては困る。それでは氷水で洗えば・・・。これで脱臭法に成功し、畜肉の寄せハムを開発することができた。これが原料不足に泣かされ続けた日本のハム・ソーセージ業界に、いまや代表的な製品となっている「プレスハム」を生み出すきっかけになった。
3.マトン(羊肉)はハム・ソーセージの救世主
昭和32年(1957)ごろ、原料豚肉の入手が難しくなってきた。米価が上がるにつれて農村は米作りに精出し、豚の飼育に熱を入れなくなった。お得意先や消費者のみなさんに迷惑をかけずに、また豚肉高騰をよそにハム・ソーセージを値上げせずにやっていけたのはマトンあってのことだった。
マトンは脂肪分が非常に多く、特有の癖のあるにおいがある。この脂肪分は分離して油脂会社に売却し、石鹸などの原料に使われる。残りの赤身の部分を氷水で十分洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから、塩漬けにかける。マトンそのものは栄養分も高く、豚肉と混入させると非常によく合い、結着がよい。こうしてプレスハムの主原料に使われるようになった。ニュージーランドや豪州からのマトン輸入量はうなぎのぼりに増え、昭和50年(1975)度のピークは、13万トンを記録した。