伊東豊雄 いとうとよお

芸術

掲載時肩書建築家
掲載期間2023/07/01〜2023/07/31
出身地京城(ソウル)長野県
生年月日1941/06/01
掲載回数30 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他日比谷高校
入社菊竹建築事務所
配偶者岩切律子(NHK理事)、土方洋子(ワイン)
主な仕事多摩田園都市計画、欧米視察、独立、アルミの家、ローコスト住宅、風の塔、せんだいメディアアーク、みんなの家、アートポリス、町おこし、プリッカー賞、
恩師・恩人菅沼四郎、丹下健三、菊竹清訓
人脈法眼健作(日比谷)、磯崎新(10上)、黒川紀章(7上)、槙文彦、安藤忠雄、細川護熙、奥山恵美子、隈研吾、中田英寿
備考父趣味:陶磁器
論評

建築家としてこの履歴書に登場は、谷口吉郎、丹下健三、磯崎新、安藤忠雄、谷口吉生に次ぐ6人目であるが、宮大工の西岡常一を入れると7人目となる。氏は、「家は全ての建築の原点だ。人間的なスケールや優しさを備え、自然や土地に溶け込み、多様な暮らし方を受け止める。そんな家の形があっていいはずなのに、僕らはLDKとか機能といったことに囚われがちだ。新しい時代の建築を模索していきたい」と説く。

1.菊竹清訓建築事務所
建築家の菊竹さんは、「メタボリズム」の論客の一人として知られていた。大学4年の夏、この事務所にアルバイトに入った。事務所では菊竹さんが頂点に立ち、10人ほどの所員が手足のように動けるように鍛え抜かれていた。ボスがアイデァを出すと、それを合図にチームの3人が一斉に図面を描き始める。「ご三家」と呼ばれたベテランの内井昭蔵さんが平面図、遠藤勝勧さんが断面詳細図、久慈(小川)惇さんが立面図というように担当が決まっていた。丹下健三氏の事務所では、大谷幸夫、神谷宏冶、磯崎新、黒川紀章といった精鋭が案を出し合い、チームとして精錬させていくやり方だったのとは対照的だ。直感型の天才タイプである菊竹さんならではのシステムだった。
 これで行けると思われたデザインが、菊竹さんのひらめきで一晩でひっくり返ることもよくあった。36歳で出雲大社庁舎の設計で日本建築学会賞も受賞し、事務所は高揚した空気と異常なほどの緊張感に包まれていた。

2.建築の変遷(1950~1970)
1970年代の東京で小さな住宅ばかりやっていた若い僕らを「平和な時代の野武士達」と称したのは槙文彦氏。建築界の名門出身で、50年代にハーバード大でモダニズムの神髄を学んだ建築家である。
 もちろん僕らは反発。しかし一方で、槙さんたちの世代とは建築の潮目が変わりつつあることを感じ取っていた。丹下健三氏を中心に公共建築が量質ともにピークに達した60年代は終わり、メタボリズムの建築家による未来都市のビジョンも陰りが見え始める。そんな時代に、伝説的な著書「建築の解体」で「都市からの撤退」を呼びかけたのが磯崎新氏。同じく都市に背を向け、小さな住宅の中にユートピアを見出した篠原一男氏。70年代、この二人の建築家は僕らの世代に大きな影響を与えたと思う。

3.コンペティション(略称:コンペ)のルール
「八代市立博物館・未来の森ミュージアム」(1991年・熊本県)を手掛けた後、公共建築のコンペ(設計競技)に挑戦する機会が目に見えて増えてきた。
 行政が主催するコンペでは過去の実績が重視される。例えば劇場なら「1500以上の客席がある、あるいは延べ面積15000㎡以上の新築工事実施設計業務を元請けとして履行した実績を有する者」と言った参加条件がある。住宅程度の経験しかない若い建築家や「アトリエ系」と呼ばれる小さな設計事務所にとってはかなりハードルが高い。
 審査委員の経験豊富な日本大学教授で建築史家の近江栄さんによれば、「プロポーザルの図面は整え過ぎてはいけない」。採用された後で役所などからの様々な希望を聞き入れ、変更がきくようにしておくのが肝要なのだという。真剣勝負ではあるが、勝ち負けに運はつきもの。だから建築家にとって後腐れはない。しかし、今のコンペは個別の項目ごとに得点を付ける点数制が主流。難点と見なせばすぐ減点というやり方が、クリエイティブな才能を潰してしまうのではないかと懸念している。

4.みんなの家
2011年3月11日、東日本大震災が発生。テレビで東北の被害を知って絶句した。震災直後から土木の専門家は復興支援に奔走したが、僕らには何ができるのか。建築家の内藤廣さん、隈研吾さん、山本理顕さん、妹島和世さんと「帰心(KISYN)の会」を立ち上げ模索していた。あるとき宮城県内の避難所を訪れ、高齢の女性からもうすぐ仮設住宅に移ると聞かされた。ところがあまりうれしそうでない。聞けば、体育館は雑魚寝で不便だけれどみんなと一日中話ができる。 仮設に行ったらバラバラになってしまうのではないかと不安がっていたのだ。
 「だったら私たちの手できれいなテーブルを作り、花でも飾って皆がご飯を食べられるようにしよう」。そう提案したのは妹島さんだ。2011年10月、「みんなの家」と名付けた集会所は完成した。切り妻屋根のある40㎡ほどの木造の小屋だ。外から気軽に入って来られるように床は土間にして、薪ストーブとテーブルを置いた。ちゃぶ台のある畳敷きの小上がりや庭が眺められる縁側もある。木材と建設資金は熊本県から提供された。そのほかの屋根材やキッチン、トイレ、畳まですべてが企業の厚意で集められたのである。
 完成後は日中、女性たちがおしゃべりをしながら針仕事を楽しみ、夜もご飯を持ち寄り、お酒を飲んだりする人たちで遅くまでにぎわった。6年後、震災前に暮らした新浜地区に戻ることになった彼らは市役所に嘆願して「みんなの家」を移設。いまなお集会所として使ってくれている。多くの若い建築家たちの協力を得て、子供の遊び場や産直販売所などを備えた「みんなの家」が東北各地に全部で16棟できた。

5.新国立競技場
「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」の主会場である国立競技場は2回のコンペを経て実現した。僕らのチームは2度挑戦し、2度敗れた。
「木材を可能な限り利用する」「日本の伝統的文化を現代の技術で表現する」の条件も加わった。そこで僕らは、白磁のスタジアムの周りに1・5m角、高さ約20mの木の柱72本を立てて構造体とする案を作った。会場を訪れる人はこの列柱を背景に記念写真を撮るだろう。五輪のシンボルになると思った。僕らの提案チームには竹中組、日本設計、清水建設、大林組も加わった。最後は隈研吾氏と大成建設、梓設計によるチームの「A案」と一騎打ちとなり、僕らの「B案」は敗れた。審査会の評価はA案が610点、B案は602点。工期を順守した提案にもかかわらず工期部分での27点差は今も納得がいかない。国から事前に送られてきた質問状には、建材の入手方法や工程管理の計画などに関する項目が膨大に記されていた。提案への思想は一切問われなかった。
 国立競技場の一件は日本のコンペが抱える課題を露呈した。管理主義的な社会の締め付けはますます厳しくなり、創造的な建築が生まれにくくなっている。アジアを含め海外の指名コンペでは準備のための参加費が2000万円くらい出るのは珍しくない。日本は殆どゼロ。創造行為に対する支援がこのような状態では才能ある若い建築家が育たないのではないだろうか。

伊東豊雄
生誕 (1941-06-01) 1941年6月1日(82歳)
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 京畿道京城府
(現 大韓民国の旗 韓国ソウル
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京大学
職業 建築家
受賞 日本建築学会賞作品賞(1986、2003年)
村野藤吾賞(1990、2017年)
日本芸術院賞(1999年)
ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞(2002年)
RIBAゴールドメダル(2006年)
高松宮殿下記念世界文化賞(2010年)
プリツカー賞(2013年)
日本建築学会賞大賞(2016年)
文化功労者(2018年)
旭日重光章(2021年)
日本芸術院会員(2022年)
所属 (株)伊東豊雄建築設計事務所
建築物 White U
シルバーハット
せんだいメディアテーク
多摩美術大学図書館
台中国家歌劇院

伊東 豊雄(いとう とよお、1941年6月1日 - )は、日本建築家一級建築士。伊東豊雄建築設計事務所代表。

東京大学東北大学多摩美術大学神戸芸術工科大学客員教授を歴任。高松宮殿下記念世界文化賞RIBAゴールドメダルUIAゴールドメダル日本建築学会賞作品賞2度、グッドデザイン大賞、2013年度プリツカー賞など受賞歴多数。多摩美術大学大学院美術研究科教授[1]

  1. ^ TAMABI NEWS 94号(映像で魅せる力)|多摩美術大学”. www.tamabi.ac.jp. 2023年9月10日閲覧。
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