掲載時肩書 | 三洋電機会長CEO |
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掲載期間 | 2003/09/01〜2003/09/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1932/02/28 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 同志社大学 |
学歴その他 | 寝屋川 |
入社 | 三洋電機 |
配偶者 | 九州百貨店主娘(池田勇人仲人) |
主な仕事 | 東京三洋電機、シアーズ・ローバック、GE/OEM、フェリー会社、(ウオルマート・ハイアール・サムソン)連携、ソーラー |
恩師・恩人 | 磯田一郎、巽外夫、立花大亀老師 |
人脈 | ビル・クリントン知事、安藤忠雄、稲井隆義、アキノ大統領 |
備考 | 伯父松下幸之助(父の姉婿) |
1932年2月28日 – )は東京生まれ。実業家。 三洋電機元社長。昭和31年父が創業した三洋電機に入社。管理部長などをへて,60年副社長。石油ファンヒーター事故の責任をとって辞任した叔父井植薫の後任として,61年社長に就任。東京三洋電機と合併し,非家電商品の比率をたかめるなど,体質転換をはかった。三洋電機創業者の井植歳男の長男。
1.シアーズ・ローバック社との闘い
1972年(昭和47)、テレビ事業本部長に就任した。そこへ最大の納入先である米国シアーズ社から非情な連絡があった。「カラーテレビ全量キャンセル。ただし、それに見合う分の白黒テレビを注文する」と。理由は不振の子会社、ウォーイック社の救済。ワールプール社との合弁の家電メーカーだ。同じ数の白黒テレビといってもカラーと比べて価格は4,5倍の開きがある。カラーテレビの輸出分を受け持っていた住道工場(大阪府大東市)はたちまち干上がってしまった。
私はシアーズを見返してやりたかった。それにはウォーイックが及びもつかない画期的なテレビを開発すればいい。「先方が飛びつくようなテレビをつくろう」と呼びかけ、それから工場の存亡をかけた技術陣の挑戦が続いた。眼目はそれまでのクモの巣みたいな回路の簡素化。プリント基板の上に整然と集積する形に改めた。試行錯誤の末、まるで白黒テレビのようなすっきりしたシャシーが完成、コストも大幅に削減した。外見もシャレたデザインに一新した。
かくして、74年暮れ、シカゴにそびえる超高層のシアーズ本社に乗り込んだ。そして「この白黒並みのシンプルなシャシーでこれだけの高画質カラーテレビを実現しました。当然故障は激減し、シアーズ社の収益は飛躍的に向上するでしょう。それでも三洋のテレビに魅力を感じませんか」と一気にまくし立てた。
「オーケー、君たちの勝ちだ。この場で10万台の発注をしよう」。半年間、フル操業のオーダーだ。ホテルに戻ってすぐ日本にテレックスを送った。その日はクリスマスイブ。「大きなクリスマスプレゼントがある」と始めた。翌日の飛行機で大阪・伊丹空港に降り立つと、住道工場から300人も迎えに来ていた。どの顔にも涙が光っている。全員で勝ち取った成果だと改めて思った。
2.ビル・クリントン知事
1976年(昭和51)秋、米国のテレビメーカー、ウォ―イック社のアーカンソー州フォレストシティにあった工場を買収した。アーカンソーといっても日本人にはほとんど馴染がない。南部ミシシッピ川下流の小さな州で、綿花や大豆の畑が一面に広がっている。翌77年1月4日、ウォ―イック改めサンヨー・マニファクチャリング・コーポレーション(SMC)はカラーテレビの生産を開始した。従業員は500人弱、私が社長に就任。
SMCは創業1年目から黒字を達成、ワシントン・ポスト紙に「経営の教科書」と取り上げられた。78年秋、州知事の選挙があって新知事が誕生した。就任を前に好業績の日本企業のトップに会いたいと朝食のお誘いが来た。
州都リトルロックのゴルフ場のクラブハウスで迎えてくれたのは、まだ32歳という長身、長髪の若者だった。「ようこそミスター井植、ビル・クリントンです」。知事から、人員整理に追い込まれた赤字会社を1年で立て直した理由と州が企業誘致を進めるにあたって留意すべき点の2つを質問された。
私はまず、日本的な家族経営に心を砕いたことを説明した。その上で、「ワーカーは優秀ですが、管理職は東部とか外から来た人ばかりです。州の教育制度に問題があるように思えます」と疑問を呈した。いつしか初対面であることを忘れ、政治、文化、家族のあり方まで語り合った。
飾らない人柄、率直な物言い、私は15も年下の初々しい風貌の新しいリーダーに、この国の大いなる可能性を予感した。直後に日本に戻った私は妻にこう話した。「あの全米で最も若い知事はきっと大統領になるよ」と。
3.米国職場の融和を図る
私たちの現地生産会社SMCは業績が順調ながら、米国特有の労務の難しさを次第に認識させられるようになった。ホワイトカラーとブルーカラー、サラリー(月給者)とアワリー(時間給者)、白人と黒人。何層にも入り組み、私の目指す調和のとれた人間関係の構築になかなか理解を得られなかった。
駐在員が黒人の女の子を食事に誘ったことがある。翌日、市民から抗議が来た。白人まで部下にしている日本人が黒人と連れ立ってレストランに行くとはけしからん。海外部門の先輩にもダメだと忠告された。私は米国流の慣習に風穴を開ける方法はないものかと考えた。浮かんだのは運動会。駐在員には笑われた。誰が無報酬で休日に出てくるものですか。私は機会あるごとに持ち掛けてみた。もともとお祭り好きの国民性だ。だんだん興味を示してきた。
ついに実行委員会が結成された。競技委員は黒人アワリー、人事課長が給食係、会場設営は製造部長といった具合。終業後、集まってはプランを練っている。「SMCオリンピック」とたいそうな大会名が決まり、雰囲気は急に盛り上がってきた。
以前は無視していたホワイトカラーとブルーカラーが自然に挨拶を交わしている。聞けば同じ競技委員会のメンバーだ。広大なグランドにIUEの看板が掲げてあった。私の名前かと思ったら、組合の上部団体、全米電機労組の略号がたまたまIUEだった。
80年10月10日、快晴のもと、オリンピックは開幕した。そこへパトカーが到着、助手席から降りてきたのはクリントン知事だった。リトルロックから2時間かけてスピーチに来てくれたのだ。バケツリレー、ムカデ競争、パンならぬパイ食い競争に綱引き、合間には地元中学生のチアガールが花を添えた。市民にも参加を呼びかけ、ボックスランチを2500個用意した。スタンドは人であふれ、ランチが品切れの盛況だった。フィナーレでは全員が肩を組んで輪になって踊った。その中にいた私は次々と声を掛けられた。「ボス、来年もやりましょう」。