掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1970/11/01〜1970/12/02 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1898/02/15 |
掲載回数 | 32 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大予 |
入社 | 出版社 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 中学「山椒魚」「東京文藝」 「文芸都市」「文学界」骨董狂、つり狂 |
恩師・恩人 | 祖父 |
人脈 | 友田恭助、青木南八、阿部真之助、観音寺潮五郎、 |
備考 | 趣味:骨董、つり |
1898年(明治31年)2月15日 – 1993年(平成5年)7月10日)は広島県生まれ。小説家。筆名は釣り好きだったことによる。井伏氏の記載は幼児期や中学、大学時代の思い出、友人関係などが詳細に描かれており、文学論などはあまりなかった。
1.誠之館の山椒魚
昔の福山藩校だった誠之館学校のうち庭の隅に、畳一枚分ほどの大きさの浅い池があった。しかも金網の覆いをしてある池だから青苔との調和に欠けている。この池に2匹の山椒魚を飼ってあった。1匹は1尺5寸(45cm)ほどで、他の1匹は2尺7,8寸から3尺(90cm)ぐらいあった。ハンザキという種類の大ハンザキである。
これは島先生という動植物学担当の古参の先生の所有にかかるものであった。島先生は寄宿舎の舎監長も兼ね、気難しい先生だが、寄宿舎にいた私は、どこかで雨蛙を見つけると、かまわず掴まえて山椒魚に食べさせていた。これが病みつきで、田圃のカエルを捕って食べさすようになった。山椒魚がすっと浮いてきて、がぶりと一呑みにするところが面白い。蛙を捕りに行くときは、私の同級生で寄宿舎も同室の宮原哲三と一緒に行った。
2.名優・友田恭介(新劇俳優)を悼む
早稲田の予科のとき、私の1級下に伴田恭介がいた。伴田はそのころ友田と改称して、メーテルリンクの「青い鳥」上演の稽古にとりかかり、数人の予科学生や夏川静江などを廻陽軒に連れてきて、本読みをやっていた。夏川はまだ6歳の頑是ない女児であった。これはチルチル・ミチルのミチル役で、チルチルは14,5歳の水谷八重子。友田恭助は犬の役であった。
友田君は徴兵になり呉淞クリークで戦死したが、その最期の状景を読売新聞の戦地特派員が克明に報じていた。クリークに飛び込む前にポケットから子供の写真を出して見たことから、クリークを泳いで向こう岸に着く寸前に敵弾にやられ、手を空に差上げて水に沈んで行くところまで詳しく描いていた。たまらない気持ちがした。
3.関東大震災の避難先
関東大震災があった時、飛び出して下戸塚の野球グランドへ避難して、その日は3塁側のベンチで夜を明かした。このグランドは現在「安部記念野球場」と言っている。私たちのころは「早大グランド」と言っていた。3塁側のベンチは目白台の細川邸や女子大の方に向かい、東京市街に対して1塁側スタンドよりも展望範囲が広い。
東京は3日3晩にわたって燃え続けた。白木屋が燃えるときと、帝大の大講堂が燃えるときはひときわ高く火柱が立った。3塁側スタンドには大勢の避難者が詰めかけて、いつもの早慶戦のときの三分の一ぐらいの人数であった。野球のときと違ってみんな無口になっていた。一塁側は街の火の手が見えないので、1日、2日、3日とも、わずかな人しかいなかった。
グランドの空き地には誰もいなかった。ただ一度、絆纏着の男が飛び出して行って、ホームから一塁ベースのあたりまで駈けて行き、暫く立ち止まっていた。それからまた駈け出して、二塁、三塁を廻ってホームへ帰り、スタンドに引き返してきた。何のつもりかわからない。
当時、野球界の名物男として広く野球ファンに間に知られていた「新ちゃん」の弟かもしれない。早慶戦のときには献身的にホームの地ならしをしたりラインを引いたりしていた男である。
井伏 鱒二 (いぶせ ますじ) | |
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1952年の井伏 鱒二 | |
誕生 | 井伏 滿壽二(いぶし ますじ) 1898年2月15日 日本・広島県安那郡加茂村 (現福山市) |
死没 | 1993年7月10日(95歳没) 日本・東京都杉並区 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学仏文科中退 |
活動期間 | 1923年 - 1993年 |
ジャンル | 小説・随筆 |
文学活動 | 新興芸術派 |
代表作 | 『山椒魚』(1929年) 『屋根の上のサワン』(1929年) 『ジョン万次郎漂流記』(1937年) 『さざなみ軍記』(1938年) 『多甚古村』(1939年) 『本日休診』(1950年) 『駅前旅館』(1957年) 『黒い雨』(1966年) 『荻窪風土記』(1982年) |
主な受賞歴 | 直木三十五賞(1938年) 読売文学賞(1950年・1972年) 日本芸術院賞(1956年) 文化勲章(1966年) 野間文芸賞(1966年) |
デビュー作 | 『幽閉』(1923年) |
親族 | 郁太(父) ミヤ(母) 民左衛門(祖父) 文夫(兄) 泉(姉) 圭三(弟) 節代(妻) |
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井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1993年〈平成5年〉7月10日)は、日本の小説家。本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身[1]。筆名は釣り好きだったことによる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。福山市名誉市民、広島県名誉県民、名誉都民。