掲載時肩書 | 東京急行電鉄会長 |
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掲載期間 | 1956/04/14〜1956/04/23 |
出身地 | 長野県 |
生年月日 | 1882/04/18 |
掲載回数 | 10 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 東京高等師範 |
入社 | 農商務省 |
配偶者 | 小林→五島(入婿) |
主な仕事 | 武蔵電鉄、東急電鉄・東京地下鉄・東横学園、白木屋買収・運輸通信大臣 |
恩師・恩人 | 嘉納治五郎、富井政章、加藤高明 |
人脈 | 同期:重光葵・石坂泰三・正力松太郎、郷誠之助、小林一三、渋沢秀雄、根津嘉一郎、藤原銀次郎 |
備考 | 資産家、日蓮宗絶対信仰 |
1882年〈明治15年〉4月18日 – 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日本の官僚・実業家。東京急行電鉄の事実上の創業者。官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道(現・東急池上線)や玉川電気鉄道(現・東急玉川線)をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収し、「強盗慶太」の異名を取った。一方、実業家としては優れた経営を行い、小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と称された他、「ピストル堤」と呼ばれた堤康次郎とは犬猿の仲だった。
1.嘉納治五郎先生
私は明治35年(1902)に東京高等師範学校の英文科に合格した。校長は嘉納治五郎先生で、1週間1回嘉納先生から倫理の講義を聞いたが、先生は柔道の格好で太い腕節を出して「なあに」という精神が一番必要だ、どんなことにぶつかっても「なあに、これしきのこと」というように終始考えろということを言われたが、先生の「なあに」精神は、事業の失敗や未決囚監獄時代の落ち込んだ時に、生かされたのだった。
2.加藤高明師は傲岸不遜の性格
私の恩師は富井政章男爵と加藤高明氏であるが、加藤氏から受けた感化は傲岸不遜ということである。加藤氏は英国大使としてロンドンに行ったが、間もなく引き戻されて西園寺公望内閣の外務大臣になった。そして鉄道国有に反対して大臣を辞めたくらいだから、実に傲岸不遜なワンマンで、そして自ら「剛堂」という号をもって、人の意見などを少しも聞かないようであった。農商務大臣の大浦兼武も、警視総監であった伊沢多喜男でさえも、彼の前に出ては巡査が警視総監の前に出たようなものであった。一歩も譲らない人であった。だから私はそれから受けた感化は非常に大きい。
思うに加藤氏は外国教育をかなり大きく受けているから、非常に傲岸不遜で個人主義だ。親分ハダのところがちっともない。彼が本当にキリスト教的な宗教心を持っていたら、もっと心の中に温かい味とか親切心が生まれたであろう。だから政党総裁としては成功しなかった。苦節10年という言葉は彼のためにできたようなものだ。憲政会の総裁になって10年間元老にお辞儀一つしたことがない。大隈侯もかなり支持していたが、元老が彼に尻を向けているので、政権が彼の所へ転がってこない。党員はだんだん減ってくる。若槻礼次郎、下岡忠治も逃げた。最後までくっついていたのが浜口雄幸だ。それでも彼は平然としていた。そこは偉い人だと思う。自分の主義を徹頭徹尾通したのだから、考えようによっては偉い人だった。
3.官吏を辞めた理由
大正9年(1920)5月11日、鉄道院を辞めたのであるが、9年間官吏生活をおくり、武蔵電鉄の常務に就任した。そもそも官吏というものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達するころは、もはや従来の仕事から離れなければならない。若いころから自分の心にかなった事業を起こしてこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。これが10年近い官吏生活を経験した私の結論であった。
4.強盗慶太の異名
私は東横電鉄―やがては東京急行電鉄となったがーの発展のために、昭和9年(1934)の池上電鉄の買収を始めとして玉川電鉄、京浜電鉄、京王電鉄その他多くの会社を、あたかも札束を持って白昼強盗を働くような仕儀で買収したり、新会社を設立したりして、多い時には120数社を傘下に擁していた。時にはやむを得ず、株買占めという強硬手段を採らざるを得ないこともあったが、これは世間でいうように単に私の征服欲、事業意欲のためのみでなく、東横電鉄の社員を愛し、その老後の生活までを考え、あわせて会社の総計費を分割して、経費を下げるということからやったことである。
こうしたなかで、「強盗慶太」の声価を一段と高らしめ、決定的にしたのは、三越の乗っ取りと地下鉄争奪戦とである。この時は私も真実、骨身を削る思いをしたものであった。
五島 慶太 ごとう けいた | |
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生年月日 | 1882年4月18日 |
出生地 | 長野県小県郡殿戸村(現・青木村) |
没年月日 | 1959年8月14日(77歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
前職 | 農商務省官僚 鉄道院官僚 目黒蒲田電鉄専務・代表取締役社長 東京横浜電鉄専務・代表取締役社長 京浜電気鉄道代表取締役社長 小田急電鉄代表取締役社長 東京急行電鉄代表取締役社長・会長 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 長野県青木村名誉村民 |
配偶者 | 妻・五島万千代 |
親族 | 長男・五島昇 孫・五島哲 |
第2代 運輸通信大臣 | |
内閣 | 東條内閣 |
在任期間 | 1944年2月19日 - 1944年7月22日 |
五島 慶太(ごとう けいた、旧姓・小林、1882年〈明治15年〉4月18日 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日本の実業家、政治家、官僚。東急及びその子会社の東急電鉄といった東急グループの事実上の創業者である。正三位勲一等。長野県青木村名誉村民[1]。