二階堂進 にかいどう すすむ

政治

掲載時肩書自由民主党副総裁
掲載期間1986/01/01〜1986/01/31
出身地鹿児島県
生年月日1909/10/16
掲載回数30 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
米国南カリフォルニア大学
学歴その他パサディナ初等大学
入社米国八百屋
配偶者記載なし
主な仕事3度高校受験失敗、渡米(21歳)、各種アルバイト、喀血、帰国(31)、外務省嘱託、議員37歳(2勝3敗)
恩師・恩人田中角栄
人脈賀川豊彦、石川達三、迫水久常、山中貞則、床次徳二、佐藤栄作、橋本登美三郎、愛知揆一、
備考神宮寺主13代目
論評

1909年(明治42年)10月16日 – 2000年(平成12年)2月3日)は鹿児島県生まれ。政治家。衆議院議員(通算16期)。科学技術庁長官、北海道開発庁長官、内閣官房長官、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁などを歴任。自民党では同じ吉田学校出身の佐藤栄作の側近として活躍し、1957年には橋本登美三郎・愛知揆一・保利茂・松野頼三らとともに周山会(佐藤派)を結成する。党内では労働政務次官、衆議院建設委員長、商工委員長などを歴任。その間田中角栄と商工委員長時代に面識を持ち、「趣味は田中角栄」と公言する程、惚れ込む。

1.政治家への志
私が政治家になった源をたずねていくと、青春時代のアメリカ体験にたどり着く。昭和6年(1931)から16年(1941)まで、私は留学生として米国ロサンゼルスにいた。日米関係が坂道を転がるように悪化した10年間だった。満州事変(6年)、満州国建国宣言(7年)、国際連盟脱退(8年)などをきっかけに、米国の排日運動は日に日に激しいものになっていった。働きながら学んでいる私の身の上にも、対日非難の嵐は容赦なく襲いかかってきた。その冷たい風を受けながら祖国日本のことを思い、日米関係の将来を考えることが、政治家になろうと心に決めた動機である。
 苦学生だった私に大きな夢を与えてくれたのは、ルーズベルト大統領がラジオを通じて、国民に直接語りかける「炉辺談話」であった。彼はドイツ、イタリア、日本の軍国主義が、アメリカのデモクラシーを脅かしていることをわかりやすく述べた後で、必ず「あなた方は、どちらを選びますか」という問いかけをした。その親しみやすい語り口は、いかにもアメリカン・デモクラシーの象徴で、異邦人の私も感銘を受けたのだった。

2.米国講演旅行(学生時代)
日華事変(1937)をきっかけに、反日感情は日本品ボイコット運動にまで発展した。日米関係の険悪化を肌身に感じながら、私は日本人として今「何をすべきか、何ができるのか」と自問自答し、悩み、焦燥感に駆られた。「そうだ、全米各地を講演して回ろう。日本の苦境を訴えて、少しでも相互理解を求めよう」。
 大学の夏休みは3か月ある。1か月をアルバイトに精出せば、多少軍資金も作れる。私の決意に、同じ南カリフォルニア大学で勉強中の牧秀司君(鹿児島出身)と井上寅雄君(福岡出身)が賛成してくれた。ロス領事館の太田一郎領事に相談すると、激励され、全国各地にある日本人会への紹介状を書いてくれた。そして日本観光協会は、日本紹介の映画フィルムを貸し出してくれた。かくして3人は、約2か月間の講演旅行に出発した。私が演説係、井上君と牧君は運転と映写係。昭和13年(1938)のことである。
 講演旅行のコースは、ロサンゼルスを出発、アリゾナ、テキサスを経て北へのぼり、カンザスから中部地方を回ってマイアミへ。そこから大西洋岸を北上してワシントンDC,ボストンへ、さらにミシガン、テネシー、ミネソタ、ワシントンの各州を回ってシアトル、オレゴンへと、47州、1万6千キロに及んだが、多くを学んだ。

3.外務省嘱託で感じたこと
昭和16年(1941)8月に31歳で帰国した。そして外務省調査部の嘱託になったが、私の主な仕事は、米国の短波放送を受信し、翻訳し、それに対するわが国の対応、宣伝をどうするかという仕事を手伝うことだった。当時の局長は後に外務大臣になった岡崎勝男氏、課長は後に駐米大使になった朝海浩一郎氏だった。外交官試験をパスしたエリートの若い事務官は、冬は暖かいストーブの周りでとりとめもない雑談に花をさかせ、嘱託のわれわれを「おい、キミ」といって、こき使うのだった。こんなとき、「日本の役所は高文に合格した人が一番偉くて、そのほかの役人は全く問題にされないのか。皆、お国のことを思って一生懸命働いているのではないか。それなのに、若い事務官はぬくぬくとストーブに当たりながら横柄な態度で年輩者をあしらっている。こんなことでいいのか」。私はこの時の経験で、米国ではエリートほどよく働くから、日本の官僚制度と官僚主義が大嫌いになった。長く勤めるところではないと思った。

二階堂 進
にかいどう すすむ
文部科学省より公表された肖像
1966年 撮影)
生年月日 (1909-10-16) 1909年10月16日
出生地 日本の旗 日本 鹿児島県肝属郡高山村
(現・肝付町
没年月日 (2000-02-03) 2000年2月3日(90歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区
出身校 南カリフォルニア大学
前職 山本実彦衆議院議員秘書
新日本プロレスコミッショナー
所属政党日本協同党→)
協同民主党→)
国民協同党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党二階堂G→無派閥)
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院永年在職議員
国際関係学修士(南カリフォルニア大学)

日本の旗 第36-37代 内閣官房長官
内閣 第1次田中角栄内閣
第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1974年11月11日

内閣 第1次佐藤第3次改造内閣
第2次佐藤内閣
在任期間 1966年12月3日 - 1967年11月25日

選挙区 鹿児島県全県区(大選挙区)→
旧鹿児島3区
当選回数 16回
在任期間 1946年4月11日 - 1947年3月31日
1949年1月23日 - 1952年8月28日
1955年2月27日 - 1996年9月27日

その他の職歴
自由民主党副総裁
総裁:中曽根康弘
1984年4月 - 1986年7月
第16・23-24代 自由民主党幹事長
総裁:田中角栄
1974年11月 - 1974年12月
総裁:鈴木善幸、中曽根康弘
1981年11月 - 1983年12月)
第24代 自由民主党総務会長
総裁:鈴木善幸
1980年 - 1981年)
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二階堂 進(にかいどう すすむ、1909年明治42年〉10月16日 - 2000年平成12年〉2月3日[1])は、日本政治家

内閣官房長官(第36-37代)、北海道開発庁長官(第27-28代)、科学技術庁長官(第18-19代)、原子力委員会委員長(第18-19代)、労働政務次官第1次岸改造内閣)、衆議院商工委員長、同建設委員長、衆議院議員(16期)、自由民主党副総裁(第11代)、自由民主党幹事長(第16・23-24代)、自由民主党総務会長(第24代)などを歴任[2]

  1. ^ 二階堂進』 - コトバンク
  2. ^ 原子力委員会委員長に二階堂進氏就任”. 内閣府原子力委員会. 2023年8月3日閲覧。
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