掲載時肩書 | 建築家 |
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掲載期間 | 1983/09/10〜1983/10/10 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1913/09/04 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 広島高校、東北大 |
入社 | 前川建築 事務所 |
配偶者 | 母親似娘 |
主な仕事 | 大学院、助教授、広島原爆記念、欧州旅行、東京都庁、MIT教授、代々木競技場、大阪万博 |
恩師・恩人 | 岸田日出刀教授 |
人脈 | 立原道造、武基雄、槙文彦・磯崎新・黒川紀章(弟子)、勅使河原蒼風、亀倉雄策、森英恵、岡本太郎、鈴木俊一 |
備考 | ル・コルビジェに心酔 |
1913年(大正2年)9月4日 – 2005年(平成17年)3月22日)は大阪生まれ。建築家、都市計画家。一級建築士。日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。特に東京オリンピックの評判は素晴らしく、大会後、国際オリンピック委員会は、東京都ならびに日本オリンピック組織委員会とともに、丹下健三を特別功労者として表彰した。それ以降、丹下健三の名は世界の人々に広く知られるところとなり、日本国外のビッグプロジェクトにも多く携わることになった。
1.都市設計プラン
1942年頃の東大大学院時代、私は「都市設計」というものを考え始めていた。それまで勉強してきたのは、すべて一つひとつの具体的な建物についてであった。しかしこれからの時代は、都市を総合的にデザインする都市設計ともいうべきものが大切なのではないか。そう思って、図書館へ行っていろいろと資料をあさってみた。ギリシャ、ローマ時代の都市の復元図を見ると、ほとんど中心に広場がある。広場はギリシャ時代ではアゴラ、ローマ時代ではフォラムと呼ばれていたが、いずれにしてもこの広場が中心であり、それを中心に都市が整然と広がっていた。
だがそういえば、こうした整然たる建物群は日本にもあるではないか、と思った。神社や仏閣である。本堂があって、五重塔があって、回廊が回って、境内というものができている。いずれも美しい空間秩序を形造っているではないか。この空間秩序を、都市という規模にまで発展させることができないだろうかと考えた。
2.丹下研究室
昭和21年(1946)の春、私は東京大学建築科の助教授になり、通称「丹下研究室」がつくられた。終戦と共に、優れた学生たちが続々と戦地から帰ったり、新しく進学してくれたりした。のちに、芝浦工大学長になった沖種郎、さらに槙文彦、神谷宏冶、磯崎新、黒川紀章など、書き出せばキリがないほどの多くの優れた諸君が私の研究室に集まり、巣立って行った。
終戦直後、戦災復興院(建設省の前身)の委嘱を受けて、破壊された各都市の復興計画を立てることになった時、私は率先して広島担当を申し出た。いま広島に行くと原爆症にかかって死んでしまう、草さえも一本も生えぬであろうなどと噂されていたが、私はたとえわが身が朽ちるとも、という思いで広島行きを志願した。楽しい高校生活を送った土地であると同時に父母をほぼ同時に失ったその時に、大難を受けた土地である。何か大いなる因縁というものを感ぜざるを得なかったのである。
丹下研究室は、この広島市復興都市計画から15、16年続いた。昭和36年(1961)に発表した「東京計画」までの私の主な仕事は、広島平和公園、原爆記念陳列館、平和会館と慰霊塔、東京都庁舎、香川県庁舎、今治市庁舎と公会堂、倉敷市庁舎などがある。
3.東京五輪施設・・・人間性を根底に据える
昭和36年(1961)から39年にかけて、私は“空間と象徴”という問題に取り組むことになった。この時期に手掛けた東京五輪のための国立室内総合競技場、東京カテドラル聖マリア大聖堂などの建築がいずれもこのテーマと大きく関係したからである。建築物が抱える大空間は、ただ単に「そこに広がりがある」というだけでなく、そこを使う人々の気持ちとピッタリ結びついたものでなくてはならない。「建築空間と人間精神のふれ合い」である。この考えは必然的に“象徴”という問題に発展した。いい機会だからこの問題に真剣に取り組んでみようと考えた。そしてオリンピック施設の場合は、吊り構造という構造力学の権威、坪井善勝先生とそのグループの方々の全面的にご協力をいただき、世界で初めての試みができたのだった。
丹下健三 | |
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生誕 | 1913年(大正2年)9月4日 大阪府堺市 |
死没 | 2005年3月22日(91歳没) 東京都港区 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学 |
職業 | 建築家 |
受賞 | 日本建築学会賞(1954、55、58年) RIBAゴールドメダル(1965年) AIAゴールドメダル(1966年) 文化勲章(1980年) プリツカー賞(1987年) 高松宮殿下記念世界文化賞(1993年) 勲一等瑞宝章(1994年) |
所属 | 丹下都市建築設計 |
建築物 | 広島平和記念公園 香川県庁舎 東京カテドラル聖マリア大聖堂 代々木第一体育館 山梨文化会館 静岡新聞・静岡放送本社ビル 東京都庁舎 |
丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)は、日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。
日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。また、日本人並びにアジア人として初めてプリツカー賞を受賞した人物である。