掲載時肩書 | ソニー・ミュージックエンタテインメント元社長 |
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掲載期間 | 2022/07/01〜2022/07/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1941/08/13 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 読売広告社 |
配偶者 | 香港友人紹介娘 |
主な仕事 | CBS・ソニー、香港、フォーク、エピック移籍、ロック(シャネルズ)、SME、ゲーム(プレステ)、56歳社長、Kポップ |
恩師・恩人 | 大賀典雄 |
人脈 | 酒井政利、太田裕美、篠原涼子、久多良木健、中村雅哉、小室哲哉、平尾誠二、平井一夫、仲間由紀恵、土屋望 |
備考 | 自称:目立つ黒子、父:千里(丸山ワクチン開発者) |
ソニーで「私の履歴書」に登場したのは井深大氏、大賀典雄氏に次いで丸山氏は3人目である。同社発展の原動力となった故盛田昭夫氏、平井一夫氏は執筆していない。丸山氏はSMEに入社した平井一夫氏やソニー本体の技術者だった久多良木健氏を支援することで、エンタテインメントとしての音楽とゲームのソフト分野でソニー本体の復活に大きく貢献した。そして氏は、「目立つ黒子」「世話役に徹するマネジメント」「混雑を避け空いている分野で仕事する」人間と自称していた。
1.アイドル路線
CBS・ソニーでの担当はフォークだったが、深夜のラジオ番組に太田裕美を登場させ「木綿のハンカチーフ」がホームランとなった。これを見てよそのレコード会社もアイドル路線になだれ込んできた。業界全体で年に100人以上がデビューしていただろうか。もちろん第一線で活躍できる人は限られる。
アイドルはビジュアルを重視して売るのが基本だ。テレビに出ないと始まらない。アイドル量産ブームの中、鮮度を保ちテレビ画面に映り続けるのに、どうしても必要なことがあった。TBSの「日本レコード大賞」を頂点に放送各社が手掛ける音楽祭で新人賞を獲得することだ。年末の音楽祭に向け、9月頃から賞を獲るための作業が始まる。どのレコード会社も全社一丸で取り組む。
構造上、どうしてもテレビ局に「うちの〇〇をよろしくお願いします」と頭を下げることになる。各局のプロデューサーは偉そうにしていた。めんどうくせーなぁ。それが私の率直な気分。そういうのは得意ではなく、仕事だとしても絶対やりたくない。私が主流派のアイドルではなくフォークを担当していたのにはそういう理由もある。そこで新会社エピック・ソニ―に移り、ロックに目を着けライブハウスで「シャネルズ」を売り出した。
2.ゲーム参入で「プレイステーション(PS)」販売
1983年に任天堂の「ファミリーコンピュータ」が大ヒットし、私の周りのミュージシャンたちも夢中だった。私のSMEも専門部隊を設けてソフトをつくっていた。スーパーファミコンは90年の発売。ソニーは音源用の半導体を供給し、それを手掛けるのが久多良木健さんのチームだった。「対応ソフトの開発を手伝ってほしい」との要望が久多良木さんから私にあった。
やがて家庭用ゲーム機「プレステ(PS)」を世に送り出すソニー(現ソニーグループ)と私のSMEのゲームビジネスに6人の創業メンバーが揃った。言い出しっぺの久多良木さんはハード(機器)の開発担当、財務は徳中暉久さん、営業は佐藤明さん、ソフトと外部折衝は高橋裕二さん、システム開発は岡本伸一さんが受け持った。私は営業とソフトを全体的に見る立場だ。
まさに熱い野心を秘めたベンチャーだった。プレステは親会社にやれと言われて始めたわけじゃない。当事者たちがどうしてもやりたくてやったのだ。こうじゃないと新規の事業などうまくいかない。ときには強引、乱暴な方法で親会社から予算をとってくる。行儀のよいベンチャーなんてありえないよね。1994年発売。
3.アーティストの日米比較
米国のアーティストはいわば個人事業主。契約のための弁護士や経理事務所を自前で雇う。マネジャーも同様に雇い、稼いだ分の何%かを払う。おのずと経費を無駄遣いせず合理的に振舞おうという意識になる。日本のアーティストはプロダクションに所属し、いわばサラリーマンだ。売れなくても給料が出る半面、うんと売れたときも収入はさほど増えず、ブーブー文句を言うものも出てくる。だったら「経費を使ってやれ」となり、コンサートの舞台セットを意味なく豪華にしたりする。
そんなバカげたことを続けていては良くない。そう考えて立ち上げたのがアンティノスだ。アーティストを中心にすえ、そのサポートに徹する。日本にアメリカ的な「特区」をつくろうとした。結論からいうと、この精神を実践して成功したのは、私が小室哲哉のマネジャーとなり、エイベックスに彼を「貸し出し」た事例だ。
4.丸山学校
2000年11月末にSMEの社長は退いたが、その後1年半、取締役には残った。力を注いだのが「丸山学校」の運営だ。新たなレーベルを立ち上げられるような人材を社内で育てたいと思った。SMEは大企業になり、社員も自分が担当する「部分」は分かっても、会社の「全体」を知る機会は少ない。丸山学校ではアーティストとの契約や著作権の管理、経理、財務などを一通り教えた。
選抜した中堅社員を対象に週1回、朝から晩まで授業する。各部門の専門家を引っ張って来て先生にした。校長の私はベンチャーの話をした。カリキュラムは1年。2年間で50人ほどが卒業した。そして、社員から企画を募り、これはというものを別会社として独立させ、資金も出す。うまくいきそうなら発案者の社員にきちんと株を持たせる。企画の募集は継続的に、粘り強く実施するのが大事だ。
エピック・ソニーやソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)、インターネット事業のソニーネットワークコミュニケーションズ(ソネット)は、母体の会社から人材を外に飛び出させて成功した例だ。私は起業家ではなくサラリーマンだけれど、エピックやSCEでは「創業者気分」を味わった。それが面白いことを追求する原動力になっていたと感じる。
5.Kポップの発展
私がKポップの仕事を始めたのは2010年だ。韓国の会社から、向こうのアーティストの魅力を日本に伝える宣伝プロデューサーの役目を頼まれた。それまで韓国の音楽は日本でいう歌謡曲の時代が続き、世界的な存在感はなかった。ところがKポップは時計の針を一気に進め、全く新しい世界を切り開いた。韓国から大量の人材を米国に送り出し、音楽ビジネスを学ぶ。それを持ち帰って新しいビジネスを開く、簡単にいうと、グローバル化を前提にビジネスを行っているのだ。
韓国はインターネットの波にも飛び乗った。ミュージックビデオなど完成度の高いコンテンツをつくり、印税とか著作権など面倒なことを言わず、無料かそれに近い格安で惜しみなく発信した。東南アジアや中国にどんどん提供して市場を席巻した。ビジネス手法を次々とバージョンアップするのが韓国エンタテインメントの強さだと思う。これを間近で学べるのが、Kポップの仕事をする最大の楽しさだ。
日本の音楽業界はどうだろうか。インターネット一つとって見ても、ずっと活用に後ろ向きだった。世界の流れから取り残され、今に至っている。地球儀をぐるりと回すようなダイナミックさがインターネット時代の面白さであるはずではないか。「おい、このままじゃ、まずいぞ!」とつい口をついてでる。
丸山 茂雄 (まるやま しげお) | |
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生誕 | 1941年8月13日(83歳) 東京都 |
出身校 | 早稲田大学商学部卒業 |
職業 | 株式会社REDMusic取締役 株式会社ボードウォーク取締役会長 株式会社ジャパン・メディカル・カンパニー取締役 |
丸山 茂雄(まるやま しげお、1941年8月13日[1] - )は、日本の実業家。株式会社REDMusic取締役。(元:株式会社BREAKER)現:株式会社オーフイアム・ジャパン取締役。
株式会社エピック・ソニーの創始者であり、株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)取締役会長、株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)代表取締役社長などを歴任した[2]。