掲載時肩書 | 歌舞伎俳優 |
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掲載期間 | 2018/07/01〜2018/07/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1944/05/22 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 暁星学園 |
入社 | |
配偶者 | 祖父妻の弟・孫娘(12歳下) |
主な仕事 | 東宝から松竹へ、こんぴら歌舞伎、「鬼平」、「秀山祭」、人間国宝、 |
恩師・恩人 | 実母 |
人脈 | 実父(初代・白鷗)、養父(初代・吉右衛門:娘が実母)、実兄(二代目白鷗)、実父弟(尾上松緑)、実父兄(12代市川團十郎)、 |
備考 | 四女が尾上菊五郎(妻:富司純子)の息子(尾上菊之助)と結婚 |
氏は歌舞伎俳優として、市川猿之助(二代目:初代猿翁)、市川寿海、尾上多賀之丞、中村鴈治郎(二代目)、尾上松緑、尾上梅幸、中村歌右衛門、片岡仁左衛門、中村雀右衛門、中村富十郎、中村鴈治郎(三代目:現・坂田藤十郎)、松本幸四郎(現白鷗)、市川猿翁(二代目)に次いで14人目の「履歴書」登場である。
1.兄弟で「私の履歴書」に登場
兄弟での登場は、斎藤茂太(医師)・北杜夫(作家)、町村敬貴(牧場主)・町村金五(政治家)、河野一郎・河野謙三(政治家)に次いで松本幸四郎(現白鸚)・中村吉右衛門(歌舞伎俳優)の4組目である。そして実父の叔父である尾上松緑も登場している。
2.華麗なる梨園一族
読んでいて氏の華麗なる家系に驚かされる。実父は初代・松本白鸚、養父は初代・吉右衛門でその娘が実母、実兄が二代目松本白鸚、実父の兄が12代目市川團十郎、実父の弟が尾上松緑という歌舞伎界の名門中の名門である。彼にしてみれば、歌舞伎界の彼らは伯叔父、兄弟、いとこ、甥っ子の関係者ばかりである。氏の四女が尾上菊五郎(妻:富司純子)の息子(尾上菊之助)と結婚したため、また名門の血縁が濃くなった。
氏は名優と評された養父・初代吉右衛門や歌舞伎の技術伝承に生涯をかけてきたため、芸術院会員や人間国宝に認定された。しかし、実兄の松本幸四郎(現白鸚)は人間国宝に認定されていない。私にはこれが不思議だ。兄幸四郎は、歌舞伎の他にミュージカルで「ラ・マンチャの男」「ドン・キホーテ」「王様と私」、テレビでは「黄金の日々」「山河燃ゆ」「王様のレストラン」、舞台では本場英国でシエークスピア劇にも出るなどで紫綬褒章や文化功労章も授与されているからだ。この選ばれない理由を考えてみると、吉右衛門は歌舞伎の他、映画や新派に出演、そしてテレビの「鬼平犯科帳」(養父の当たり役)で名声を得ているが、軸足を歌舞伎の子供体験事業や「秀山祭」で技術伝承に置いていたことが高く評価されたように思える。
3.実母の稽古
芝居の稽古になると、当時普通はお弟子さんが子役を教えるものでしたが、うちは違いました。実母のスパルタ教育が待っていたのです。生活面はばあやに任せっきりでたが、芝居だけは別だったのです。お弟子さんなら遠慮もありましょうが、何しろ実母ですから、そんなものは微塵もありません。実父もまったく口出ししませんでした。
私の養父、初代吉右衛門の一人娘だった実母は、まるで跡取りの男の子のように育てられました。実際、歌舞伎の舞台にも出たことがあり、小唄も上手で、俳句や弓といった初代のたしなみを身につけていました。そして何しろ芝居についての記憶力が凄かった。初代の芝居をよく覚えていました。耳が良く芸達者だったので、セリフ回しもよく覚えていたようです。だから自分が覚えているセリフ回しで言えないと「駄目。もういっぺん」と叱られました。「違う。そうじゃない、こう」と何度もやり直しをさせられました。歌舞伎の家に生まれ、いつも初代の傍で芝居を見ていた実母の強い思い入れが、歌舞伎役者としての私をつくったのです。
それにしてもH15年(2003)以降で人間国宝に認定された歌舞伎俳優は、七代目尾上菊五郎(妻・富司純子)、二代目中村吉右衛門(H23)、五代目坂東玉三郎(H24),十五代目片岡仁左衛門(H27),六代目中村東蔵(H28)の5人である。願わくば今後、菊五郎や玉三郎、仁左衛門が「履歴書」に登場してもらいたいものだ。
氏は2021年11月28日77歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は2018年7月の74歳のときでした。氏が今年3月28日に東京・歌舞伎座公演のとき倒れ、救急車で運ばれた時はびっくりしたものでした。その後、回復されたと聞いていたのでファンの一人として喜んでいたのです。しかし、今日の新聞を読むと、3月に緊急入院して、亡くなる日まで意識が戻ることはなかったとあり、ご家族の介護とご心痛は大変なものだったろうと拝察されました。
3年前の「私の履歴書」の初日に、氏は「4歳で初舞台を踏んでから、今年で70年になります。世阿弥でならえば、老い木に花を咲かせるべき年齢になりました。至高の演技の位に「闌位」(らんい)というのがあるそうですが、その言葉が示すように、何にも煩わされずに素直に心を出してお客様の胸に迫ることができる役者になりたいものだと考えています」と書いています。しかし、ここに至るまでにいろいろ反発し、違った道を歩もうと考えたとも書いています。それでも最後は実母の指導に深い感謝の気持ちと次のように綴っています。
実母の稽古
芝居の稽古になると、当時普通はお弟子さんが子役を教えるものでしたが、うちは違いました。実母のスパルタ教育が待っていたのです。生活面はばあやに任せっきりでたが、芝居だけは別だったのです。お弟子さんなら遠慮もありましょうが、何しろ実母ですから、そんなものは微塵もありません。実父もまったく口出ししませんでした。
私の養父、初代吉右衛門の一人娘だった実母は、まるで跡取りの男の子のように育てられました。実際、歌舞伎の舞台にも出たことがあり、小唄も上手で、俳句や弓といった初代のたしなみを身につけていました。そして何しろ芝居についての記憶力が凄かった。初代の芝居をよく覚えていました。耳が良く芸達者だったので、セリフ回しもよく覚えていたようです。だから自分が覚えているセリフ回しで言えないと「駄目。もういっぺん」と叱られました。「違う。そうじゃない、こう」と何度もやり直しをさせられました。歌舞伎の家に生まれ、いつも初代の傍で芝居を見ていた実母の強い思い入れが、歌舞伎役者としての私をつくったのです。
「そして後年、子供のころは分からなかったことが「ああ、そうだ」と分かるようになりました。実母の稽古はすべて、後のためになっています」。そして今でも、ふとした時に「こう言っては駄目」「この形は駄目」「こう言いなさい」という実母の声が聞こえてくるときがあります・・と。
にだいめ なかむら きちえもん 二代目 中村吉右衛門 | |
文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
屋号 | 播磨屋 |
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定紋 | 揚羽蝶 |
生年月日 | 1944年5月22日 |
没年月日 | 2021年11月28日(77歳没) |
本名 | |
襲名歴 | 1. 中村萬之助 2. 二代目中村吉右衛門 |
俳名 | 秀山 |
別名 | |
出身地 | 日本・東京都千代田区 |
血液型 | B型 |
父 | 初代松本白鸚 初代中村吉右衛門(養父) |
母 | 藤間正子(初代中村吉右衛門の娘) |
兄弟 | 二代目松本白鸚(兄) |
妻 | 波野知佐 |
公式サイト | 中村 吉右衛門 (2代目) |
当たり役 | |
『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助 『勧進帳』の弁慶 『妹背山婦女庭訓』吉野川の大判事清澄 『極付幡随長兵衛』の幡随院長兵衛 『ひらかな盛衰記』逆櫓の樋口次郎 『絵本太功記』の武智光秀 『一谷嫩軍記』熊谷陣屋の熊谷直実 『平家女護島』俊寛の俊寛僧都 『義経千本桜』渡海屋・大物浦の渡海屋銀平 『梶原平三誉石切』の梶原平三 『松浦の太鼓』の松浦鎮信公 『大老』の井伊直弼 『天衣紛上野初花』の河内山宗俊 『東山桜荘子』の木内宗吾 『菅原伝授手習鑑』の武部源蔵、松王丸 『傾城反魂香』吃又の絵師又平 『籠釣瓶花街酔醒』の佐野次郎左衛門 『祇園祭礼信仰記 金閣寺』の松永大膳 松貫四の歌舞伎台本 『再桜遇清水』(さいかいざくら みそめの きよみず) 『昇龍哀別瀬戸内・藤戸』(のぼるりゅう わかれの せとうち・ふじと) 『巴御前』(ともえ ごぜん) 『日向嶋景清』(ひにむかう しまの かげきよ) 『閻魔と政頼』(えんまと せいらい) | |
二代目 中村吉右衛門(なかむら きちえもん、1944年〈昭和19年〉5月22日 - 2021年〈令和3年〉11月28日[1])は、歌舞伎役者。屋号は播磨屋、定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。位階は正四位。旭日重光章受章(没後追贈)[2]。公称身長178 → 176cm・体重79kg・血液型B型。ふたご座。俳名:秀山。ペンネーム:松貫四[3]。
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