中川一政 なかがわ かずまさ

芸術

掲載時肩書画家
掲載期間1975/05/27〜1975/06/27
出身地東京都
生年月日1893/02/14
掲載回数32 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
中学校
学歴その他
入社逓信官吏養成所
配偶者千田是也 姉
主な仕事草土社結成(岸田)、中学作文入賞、春陽会、60 歳欧州旅行、書道、「形ではなく感動を描く」「啐啄」
恩師・恩人
人脈岸田劉生と相撲、晶子、牧水、武者小路(ゴッホ)、 長与善郎(岸田友)、有島武郎、石井鶴三
備考マルチ人間
論評

1893年(明治26年)2月14日 – 1991年(平成3年)2月5日)は東京府生まれ。日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。97歳と長命であったが、晩年まで創作活動を続けた。
 冒頭に明治26年から昭和49年までの履歴を1ページに書きこれで終わりとシャレている。生き生きとした躍動感のある油絵を描き、岩彩、書にも優れ、随筆家としても親しまれた著作が沢山ある。氏は82歳で登場したが、この「履歴書」では氏の人生哲学を披歴していただく感じだった。
 
1.人間の運命:
古今を流れる時間の一点に人間は生まれる。そしてその時間と場所が重なる一点に人間は生まれる。それが人間の運命である。人間はその運命を足場にして生きる。

2.感動こそが捕捉する:
釣り落した鯛は大きいという。「三尺もあった」という。「そんなに大きくない。一尺くらいだ」と傍の物は言う。
釣り落した者には感動があって言う。傍の者は冷静だから一尺という。我々が絵を描くのは物を見て感動するからだ。感動しなければ画をかかない。写真のレンズには感動がない。富士山も感動があれば、そこを拡大すればよい。

3.自得の精神:
私に絵の先生はない。先輩はあっても絵を持って行って観てもらったことはない。私は画を描くに手ごたえを唯一の頼りにした。手応えがなければ画はダメなのである。その手ごたえによって自信というものができるのである。先生もしくは先輩に褒められて良い気になっているのは自信ではない。他信である。自信と他信は似て非なるものである。

4.ぶつかり稽古:
私はヨーロッパに行ってぶつかり稽古をしてきた。へとへとになって帰ってきた。それからゆく度にへとへとになって帰ってきた。人々は鯛を抱いている。鯛だ鯛だと珍重している。鯛がもう死にかかり、死んでいるのに鯛だ鯛だと珍重している。私の考える画家はまず生きていなければならぬ。私の考える美術はとにかく生きて脈打っていなければならぬ。鼓動がうっていなければならぬ。

5.土佐派の元祖:
この元祖なる人は、山を描くのに、まず東から登り、北に降りたと。次に南から登り、北に降りたと。そして山の線を一本描いたと。二世になると、ただ一本の線を描くのだ。すべての芸術は土佐派の基点から始めなければならない。基点からはじめないものに、発展性はない。

6.大事な話は全身で聴け:
石井鶴三は信州の彫塑研究所へ行って、講演をはじめた。その時聴衆の中のノートを出して筆記しようとする者をとがめた。「話を筆記したって何にもなりません。私は全身で話をしているのです」と言った。まことに彫刻家の言葉だ。また、彼は次のようにも言った。
 対象のものの形を正しく描くことがデッサンだと思っている人がいる。画は具象芸術であるから対象の存在することは申すまでもない。ところがここでうっかりすると傍へそれて、大変な間違いを犯す。つまり画に於いては対象によって触発される感銘が大切なので、その感銘を描くべきあるのに、間違って対象そのものを描いてしまうからである」と。

真鶴町立中川一政美術館

中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年明治26年)2月14日[1] - 1991年平成3年)2月5日[1])は、日本洋画家美術家歌人随筆家東京府生まれ。

  1. ^ a b 東京都名誉都民顕彰者一覧(令和3年10月1日現在) (PDF) - 東京都生活文化スポーツ局
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