掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1960/05/29〜1960/06/22 |
出身地 | 福島県 |
生年月日 | 1900/10/05 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 60 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大予 |
入社 | 県立津中 |
配偶者 | 会津・家付き娘 |
主な仕事 | 津中学・成田中学(計7年間)、2度の学園紛争で責任、芸術共和国、芥川賞「厚物咲」、「碑」 |
恩師・恩人 | 横光利一(2年上) |
人脈 | 尾崎士郎、井伏鱒二、中野好夫、清水崑、桔梗五郎、武者小路実篤、石川達三、宇野浩二 |
備考 | キリスト教 |
1900年10月5日 – 1969年8月19日)は福島県生まれ。小説家。横光利一に兄事し、無名時代の長い苦節を経て『厚物咲』『碑』で文壇に登場。以後作家として幅広く活躍した。後年は、戦国武将物や剣豪物を多く書いた。早稲田大学在学中に、横光利一、富ノ澤麟太郎、小島勗らと同人誌『塔』を創刊。校長排斥運動に連座して職を追われ、妻の死など苦難の後、1936年に最初の小説集『電光』を刊行、小林秀雄に認められる。1938年、岩瀬郡長沼町(現須賀川市)を舞台にした『厚物咲』で第7回芥川賞。翌年、幕末天狗党に加わった祖父をモデルに『碑』を発表し、文壇での評価を高める。小説『穴』を発表。また、帆足図南次と『農民リーフレット』を発刊。1948年に戦中の取材を元に『テニヤンの末日』 を発表したほか、『新剣豪伝』『信夫の鷹』 、明智光秀を描いた『咲庵』(『群像』1963年1月-1964年2月。8月刊)などの歴史小説や、兄事した横光の生を描く『台上の月』 などを書いた。氏は芥川賞を獲る前の下積み時代を中心に書いていた。
1.横光利一との交遊と恩
大正7年(1918)、早稲田予科に入学した。まもなく横光を知った。彼との交遊が、私の将来を決定することになる。彼は文学に対して、私を開眼させてくれたばかりでなく、野生の子猿を訓練してくれた、無類の調教師でもあった。「文学をやるなら、まず机の前に端座することを覚えろ」。
そう教えてくれたのは、横光である。彼は私より2歳上で、早稲田の文科も2年先輩だったが、一度学校をよして、再び戻ってきたとき、私と一緒のクラスになった。このころの横光は、肩に波うつ髪、蒼白い顔、唇をきっと結んで痩せ身の胸をそらせ、あたりを睥睨していたが、それが当時の文学青年の典型だった。いつも下宿の一室に閉じこもり、夜は読書や創作に専念して、一歩も外に出ない。世俗の社会や生活から隔絶して、ひとりミューズの女神に仕えること、これが彼の信条とするところだ。
「のう、中山、世間は我々を、文士文士と言って軽蔑している。社会や国家は、我々に何の保護も恩恵も与えないし、父母兄弟すら、我々の仕事に反対している。しかし、それだからこそ、遣り甲斐があるのだ」と。
後年難破しかかっている私を温かい目で見守り、作家としての新しい誕生を、期待してくれたのは横光だった。横光は川端康成と並び、新進の頭目だった。「機械」を書いた後、純文学の花形として、トップを走っていた。彼もまた新人の時代に、小島勗の妹である妻に肺を病まれ、その看護に心労の限りを尽くして、空しく死別してしまった経験があった。若かった彼はその後、理想の夫人を得て、痛恨と孤独から救われたが、中年で妻を失い、しかもなお世に出られずにいる私にとっては酒に酔いしれているぐらいが慰めだった。
妻が病んでいたとき、銀座の天金の2階に、二人で上がったことがあった。時刻はずれであったものか、大広間は客の影もなくひっそりとしていた。私と差し向かいに座った横光は、懐から紙入れを取り出して、「中山、君、困るだろう。これで奥さんに、何か買ってやってくれないか」。小さな声で言いながら、私の手に10円札を握らせた。当時私は月々50円ばかり、親からもらっていたが、医者や薬代の支払いが精一杯で、妻が食べたいというメロン一つすら買ってやれなかった。私は金を握り締めて、思わず涙を落すと、横光も顔を背けて洟をかんだ。
2.新人作家の栄誉は有名評論家から褒められること
昭和12年(1937)秋、私は満37歳を迎えていた。「文学界」などに自信作として寄稿しても、あまり良い評価は得られず、悶々とした日が続いていた。改造社の編集者だった桔梗五郎が年末に近づいたころ、「二月は新人号だ。義秀さん、もう一度頑張って、私の雑誌に書いてみないか」と誘ってくれた。
私としては、一も二もない。ひと月アパートの居室にこもって、60枚ばかりの短編を書いた。桔梗は早速、それを読んで、「これは面白い。これなら、立派に通る。しかし、題が平凡でよくないな」「なんとしたらよいだろう。景気のよい題はないか」と問う。
桔梗はしばらく考えて、「作品の中に、栄耀という文字を使っている。栄耀がいいじゃないか」「じゃそうしよう」。これが翌13年の「文芸」2月号に発表され、小林秀雄が新聞時評で、とりあげてくれた。当時小林の名声は、文壇を風靡する概があった。作品鑑賞の正確と鋭敏さにかけては、正宗白鳥、川端康成と並ぶ権威である。新人作家などはこの3人に認められることを、栄誉としたものだ。とくに小林の存在は、新時代の目標だった。小林の推称は、私の意外としたところだが、同時に私の喜びでもあった。さんざんに模索したはて、これでやっと自信がついたような気持になった。
中山 義秀 | |
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朝日新聞社 - 『アサヒグラフ』 1955年10月19日号 | |
誕生 | 中山 議秀 1900年10月5日 福島県西白河郡大屋村 |
死没 | 1969年8月19日(68歳没) 日本 東京都港区虎ノ門 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学英文科卒業 |
ジャンル | 小説 |
代表作 | 『厚物咲』(1938年) 『碑』(1939年) 『テニヤンの末日』(1948年) 『台上の月』(1962年 - 1963年) 『咲庵』(1963年 - 1964年) |
主な受賞歴 | 芥川龍之介賞(1938年) 野間文芸賞(1964年) 日本芸術院賞(1965年度) |
配偶者 | 真杉静枝 |
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中山 義秀(なかやま ぎしゅう、1900年10月5日 - 1969年8月19日[1][2])は、日本の小説家。本名、議秀(よしひで)。横光利一に兄事し、無名時代の長い苦節を経て『厚物咲』『碑』で文壇に登場[3]。以後作家として幅広く活躍した。後年は、戦国武将物や剣豪物を多く書いた[3]。日本芸術院会員。