上村松篁 うえむら しょうこう

芸術

掲載時肩書画家
掲載期間1985/09/01〜1985/10/01
出身地京都府
生年月日1902/11/04
掲載回数31 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
京都市立芸術大学
学歴その他京都美校
入社卒業校助手
配偶者見合: たね子・序の舞モデル
主な仕事金魚、小鳥、19歳帝展入選、木炭画、 開眼、古代画参考、創造美術、能
恩師・恩人西山翆峰・入江波光
人脈福田平八郎、不染鉄二、山本丘人・橋本明治と「創造美術」の井上靖特ダネ、「里芋の葉」開眼、小野竹喬、
備考母:上村松園
論評

1902年(明治35年)11月4日[1]-2001年(平成13年)3月11日)は京都生まれ。日本画家。母は近代美人画の大家、上村松園。父は松園の師の日本画家鈴木松年ともされる。息子も同じく日本画家の上村淳之である。題材:金魚や鳥、草花が好きな花鳥画家-→鹿、羊なども

1.母(松園)の指導
京都美術工芸に入学した13歳のころ、猟銃で撃ったヤマドリが私の家に届けられた。キジより一回り大きく見事なヤマドリで「こんな美しい羽をむしって料理にするなんて、もったいない」と思った。夜が更けても写生に一生懸命で、ふと気がつくと火鉢の炭火がいつの間にか消えて冷たくなっていた。手もかじかんできた。夜半に目を覚ました祖母が驚いたように起きてきた。「こんなに寒いのに、まだ起きてるのか。早う寝て、続きはあしたにおし」と私を叱った。
 二階でまだ仕事中だった母がちょうどそこに降りてきて「好きなようにさせたげたらよろし。やりたい時にやってはるんやから、ええやないか」と祖母をなだめ、私には「カゼ引かんようにおし」とだけ言い残して再び階段をあがっていった。
 今日はここまでと決めて寝ようとして、ふと母の画室を見ると、向こうにもまだ明かりがついていた。絵の描き方については学校に任せ、私には何も教えようとはしなかった母だが、絵の修行の態度、精進努力の仕方にはついては、こんな風に、身をもって教えてくれた。

2.入江波光先生のショックな助言:(赤子の目のように)
赤子が初めてものを見るでしょ。びっくりするでしょ。その赤子の目のような、さらの(真新しい)目でものを見て、独自の表現をすべきです。

3.生命感:
戦争直後、スミレを土ごと大きな植木鉢に移し、画室へ持ち込んで夜も写生をしていると、スミレが話しかけてくるような不思議な生命感が伝わってきた。心の底からしみじみと物を見る境地に立ち戻ることができて、ありがたいなぁ、と合掌したくなる気持であった。

4.妻:序の舞モデル
昭和11年(1936)に母が描いた「序の舞」の時も、妻のたね子が髪形のモデルを務めた。母自身がその時のことを随筆集「青眉抄」の中で語っている。
「この絵は私の跡継ぎである松篁の妻のたね子や、謡の先生のお嬢さんや、女のお弟子さんをモデルに使いましたが、たね子を京都で一番上手な髪結いさんのところへやって一番上品な文金島田に結わせ、着物も嫁入りのときの大振袖を着せ、丸帯もちゃんと結ばせて構図をとったのであります」。
母はその頃の妻を画室でモデルにしてお人形さんみたいにかわいがっていた。

5.忘我の恍惚境:51歳
腕時計を見ると午後4時である。まだ、帰るには早すぎる。芋の葉のどこを見ても美しく感じられ、楽しいものだから再び写生を続けた。そうしているうちに、かなり離れたところからサラサラ流れる水の音が聞こえてきた。その水音がだんだん大きくなり、こちらに近づいてくるように聞こえるのに、実際に里芋の畑に水が流れてくる様子は全く見えない。風を胸に受けながら写生しているうちに、気が遠くなっていった。
その忘我の状態が20分ぐらい続いていただろうか。ふと気が付くと私は芋の葉に向かって腰かけたまま合掌していた。心から「ありがたいなぁ」という気持ちが湧いてきて、涙が流れた。今の今まで40年近く絵の勉強に励み続けてきたのは、この境地にめぐり会うためだったのか・・そんな満足感もあった。

上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年(明治35年)11月4日[1]-2001年(平成13年)3月11日)は日本画家

幼名は信太郎。母は近代美人画の大家、上村松園。父は松園の師の日本画家鈴木松年ともされるが、未婚であった松園は多くを語らなかった。息子も同じく日本画家の上村淳之である。

  1. ^ 上村松篁 :: 東文研アーカイブデータベース https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28214.html
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