掲載時肩書 | 近畿日本鉄道相談役 |
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掲載期間 | 1999/11/01〜1999/11/30 |
出身地 | 新潟県 |
生年月日 | 1914/09/21 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 85 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 新潟 |
入社 | 日魯漁業 |
配偶者 | 神主家娘 |
主な仕事 | 父社会事業家、近鉄、広報部長、東京 所長、伊勢湾台風、脅迫事件、松柏美術館 |
恩師・恩人 | 佐伯勇 |
人脈 | 小沢辰夫(新潟)、河野一郎(ニチロ)、陳建民、村野藤吾、馬場勇、岡本太郎(球団デザイン)、上村松篁・淳之、土井正治 |
備考 | 代々僧職、父社会事業家 |
1914年9月21日 – 2009年8月25日)は新潟県生まれ。実業家。近畿日本鉄道(近鉄)元社長(大阪電気軌道創業から10代目)・会長、近鉄グループの元代表者。社長就任時には「攻めの経営」を表明し、三大プロジェクトと位置付けた上本町やあべの橋のターミナル整備、東大阪線開業に注力した。また顧客とのコミュニケーションを重視し、「ABC (Action for Better Communication) の精神」を唱えた。上本町ターミナル整備は1985年、東大阪線開業は1986年と社長在任中に完成したが、阿部野橋ターミナル整備完成は1988年で社長退任後であった。
1.初運転はいきなり・・
昭和20年〈1945〉6月、31歳で日魯漁業から近畿日本鉄道に途中入社した。近鉄ではまず、総務部庶務課で見習いとなった。8月からは教習所で車両の構造や信号の見方、旅客の扱いといった実務を叩き込まれた。15日、昼に天皇陛下のお言葉がラジオから流れた。敗戦というより、終わった、という実感だった。
さて、復旧だ。車両や駅の施設はかなり被害を受けていた。性根を据えて仕事をするか、と翌朝、教習所に出勤すると「今日から電車に乗れ」と指示された。いよいよ実習か、それなら列車区での実技指導だろう。ところが、指定されたのが8時の上本町発名張行きだ。「車掌か運転台の横ですね」と師範運転手に聞くと、「お前が運転するんや」。「俺がいう通りにすればいいから」と言われても、心の準備ができていない。後は無我夢中だ。確かに動かすのは簡単で難しいのはスピードとブレーキの加減。ガク、ガクの連続で、師範運転手は隣で怒鳴りっぱなしだ。
近鉄の役員が沿線の駅から乗ってくると、運転台の横で立っている。私が「出発進行」というと唱和してくれる。それはいいが、ブレーキでガクンとなると、そのたびに前のガラスに頭をぶっつけ、「何をしとるか、名前をいえ」。今ではもちろんあり得ない話だが・・。
2.近鉄グループ
近鉄グループは現在ざっと180社ある。多くの関連会社と付き合ってきたが、中でもホテルと旅行会社への思い入れが強い。私は本音を言えば近畿日本ツーリストに行きたかった。この会社の成り立ちはユニークだ。東大を出て大陸に憧れ、朝鮮銀行に就職したが、戦後、宮仕えに嫌気がさして旅行社を始めた男がいた。その馬場勇氏は修学旅行の将来性に着目し、全国の学校を飛び回って契約をとりまくった。専用列車を仕立てて京都に送り込んだ。この馬場さんと親しくなり、昭和30年〈1955〉、馬場さんの会社(日本ツーリスト)と、近鉄系の近畿日本航空観光が合併、近畿日本ツーリストが誕生したのである。
もう一つ、近鉄系ホテルは国内17,海外は3つある。そのうち、京都の都ホテル、三重県賢島の志摩観光ホテル、そして奈良ホテルについては多くのファンの支持をいただいている。都ホテルは明治23年〈1890〉の創業で、来年は110年になる。今はJR西日本と共同経営の奈良ホテルも明治42年〈1909〉からだ。どちらも風格のあるたたずまいで、文化財そのものといわれる。
志摩観光ホテルも50年近い歴史がある。今でこそリゾートと言っているが、その頃は軽便電車がのんびり走っていた田舎町だった。設計を頼まれた村野藤吾さんが余りの辺鄙さに「ここに本当にホテルが建つのか」と呆れたという。
3.佐伯勇氏
佐伯氏は昭和2年(1927)に近鉄に入社以来、60年余り、そのうち社長22年、会長14年、近鉄の歴史を築き上げて来たといってよい。この会社はこの人抜きでは語れない。好奇心の塊だった。そして、疲れを知らなかった。新しいことが好きだった。有料の座席指定の特急列車を走らせたのは戦後間もない昭和22年。普通の電車は窓ガラスは破れ、買い出し客がその窓から出入りしたころだ。必ず座れ、案内嬢が世話してくれる。佐伯さんの発案の周りはあきれた。すし詰めの客をどうするんだと。そういう時代だから人々に夢や希望が必要なんだと強行するのである。
社内でのおしぼりサービス、車内電話、ラジオ、二階建て車両、コンピュータによる座席予約。皆、日本初めてだ。どれも佐伯さんのアイデァが結実したものばかり。口癖は「考えろ、いい案ないか」。一案じゃだめだ。次善の策も用意しておけ、だった。
人間佐伯は愛すべき怖がり屋であった。一度、二人で横断歩道を渡ろうとしたら動かない。信号が青なのに足がすくんで歩けないというのだ。ある日、いつになく厳しい顔つきなので「何か難題でも」というと、小さな声で「実は注射や」という。「虫歯が耐えられないほど痛む。抜くというが、注射のことを考えると歯科医に行けない」。私は早くから佐伯さんの薫陶を受けた。熱は熱いうちに打てという。火の玉のようだった佐伯さんとともに燃焼できたことを幸せに思う。