三浦哲郎 みうら てつお

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間2000/11/01〜2000/11/30
出身地青森県
生年月日1931/03/16
掲載回数29 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他
入社中学教諭
配偶者射的娘
主な仕事太宰治・本、助教諭、同人雑誌「非情」、自分の結婚経緯「忍ぶ川」
恩師・恩人井伏鱒二
人脈船越康昌、立花義康、佐藤光房
備考長兄失踪、姉2人自殺
論評

1931年3月16日 – 2010年8月29日は青森県生まれ。小説家、1961年(昭和36年)『忍ぶ川』で芥川賞を受賞した。前半生の陰鬱さが作風に表れながらも、南部地方らしい男女の情緒の描き出し方に一定の評価を得た。1963年、NHK連続テレビ小説『繭子ひとり』の原作を書き、1971年に刊行した児童文学『ユタとふしぎな仲間たち』も、NHK少年ドラマシリーズになり、劇団四季によってミュージカル化されて何度も上演されている。1976年『拳銃と十五の短編』で野間文芸賞を受賞し、文壇的地位を確立する。不幸な女性、故郷青森の風土を背景とした貧しい人々を描き、『おろおろ草紙』では江戸時代の東北の飢饉を描き、『白夜を旅する人々』では、一家に遺伝する病気を描いた。「私の履歴書」では本人の幼少から家庭環境、そして結婚までを書いていた。文芸上の交友関係などは「全く記載なし」だった。

1.中学校の助教諭に
1947年に六・三・三制の新しい学制が発布され、新制中学が各地に続々と新設された。八戸市立白銀中学校もその一つで、漁業関係者の子弟が多かった。この辺りでは男の子は小学校を出るとすぐ漁船に乗って親の手伝いをするのである。しかし、この新学制になると、小学校を出ても、もう3年通学しないと一人前として扱われない。急にそうなったのだから、親も子供も戸惑うのである。
 安田校長は、子供たちに学校を楽しいところにするためには、スポーツ用品を用意し、スポーツを積極的に導入すべきと考えた。そこで適当な指導者を物色していたところ、私が大学を休学しているのに目を付けたのだった。私は次兄の失踪や大学のことも忘れて浜の子らと、昔なじんだボール遊びに耽ってみようとかと思った。当時は教師不足のために大学中退者でも中学校の助教諭に19歳の私もなれたのである。

2.宿直で酒を知る
この中学校は、教頭以下の男性教師たちに宿直当番が、順番に一人ずつ義務付けられていた。当時学生服の私に、他の教師から見え透いた口実で代理を押し付けてきた。私は、初めのうちは仕方なく引き受けていたが、馴れてくると、むしろ代理宿直を歓迎するようになった。宿直室の炉端で独りのびのびと過ごす方がよほど性に合っていたからである。私は、用務員のおかみさんに頼んで、禁じられている清酒の四合瓶をこっそり買ってきてもらった。
 肴は、生徒が持ってきてくれる生きのいいイカをさばいて自分で作った。まず、皮とはらわたを取り除いてから、そうめんのようになるべく細く切って丼に盛る。ショウガをおろしてその上に乗せ、醬油をたっぷりかけてよくかき混ぜる。そいつをそうめんのようにずるっと口に入れ、茶碗の冷酒をひと口やる。こたえられない。私は下戸の父に似なくて良かったと思った。

3.小説家への決意
私は、宿直室の炉端で、何が自分の兄弟姉妹たちを自滅に誘い込んだかを考えこむようになった。長兄は原因不明の失踪、姉二人は自殺をしているのだから・・。ある晩、ふと、それは血の仕業ではないかと思い当たった。私たちきょうだいを流れている共通の血である。その血が病んでいるのではないか?
 20歳になったばかりの私はそう考えて慄然とした。きょうだいたちの血が病んでいるものなら、その病んだ血が私自身にも流れているのである。私は、自分自身を絶えず監視しないではいられなかった。
 私は自分を監視するために、今日自分が何を考えどんな行動をしたかをノートに書き留めることにした。血のささやきにも耳を澄ませて、何か聞いたと思ったらそれもメモしておくことにした。日記の少し詳しいやつ、いわば私というある意味では少し危険な生き物の観察記録である。
 結局、私は白銀中学校の助教諭を2年で退職し、翌年早稲田大学文学部仏文科の入学試験を受けた。
学科試験の後二次試験の時、二人の試験官に、仏文を出て将来何をするつもりかと訊かれて、はっきり、小説を書きたい、と私は答えた。ためらわずにいうと、試験官たちもうなずき、私は合格した。

三浦 哲郎
(みうら てつお)
新潮社週刊新潮』第15巻第6号(1961)より
誕生 三浦 哲郎
(みうら てつお)
1931年3月16日
大日本帝国の旗 大日本帝国青森県八戸市
死没 (2010-08-29) 2010年8月29日(79歳没)
日本の旗 日本東京都文京区
墓地 広全寺(岩手県一戸町
職業 小説家随筆家、元中学校教員
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 文学士
最終学歴 早稲田大学第一文学部
活動期間 1955年 - 2010年
主題 家族
東北
貧困
代表作忍ぶ川』(1961年)
繭子ひとり』(1963年)
ユタとふしぎな仲間たち』(1971年)
『おろおろ草紙』(1982年)
『少年讃歌』(1982年)
『白夜を旅する人々』(1984年)
主な受賞歴 新潮同人雑誌賞(1955年)
芥川龍之介賞(1961年)
野間文芸賞(1976年)
日本文学大賞(1983年)
大佛次郎賞(1985年)
川端康成文学賞(1990年・1995年)
伊藤整文学賞(1991年)
デビュー作 『十五歳の周圍』(1955年)
配偶者 あり
子供 あり(3女)
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三浦哲郎(みうら てつお、1931年3月16日 - 2010年8月29日[1])は、日本小説家日本芸術院会員。

青森県八戸市に生まれた。早大に入学したが中退、郷里で2年間中学教師を務めたあと、早大仏文科に再入学し、文学を志す。

井伏鱒二に師事し、純愛小説『忍ぶ川』(1960年)で芥川賞受賞。以後、『恥の譜』(1961年)、『初夜』(1961年)などの情感深い私小説を発表し続けた。1985年、ふしあわせだった家族に対する鎮魂の書『白夜を旅する人々』(1984年)で大仏次郎賞受賞。私小説の系譜を継ぐ代表的作家である。

  1. ^ 三浦哲郎氏死去 作家、日本芸術院会員 - 47NEWS(よんななニュース)
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