掲載時肩書 | 石油資源開発社長 |
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掲載期間 | 1962/05/12〜1962/06/07 |
出身地 | 東京都銀座 |
生年月日 | 1887/08/15 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 早稲田中学、一高 |
入社 | 住友本社 |
配偶者 | 山口→三村(入婿)、妻歌人 |
主な仕事 | 住友伸銅所、フォード社労務管理勉強、住友鉱山鉱業、別子銅山事件・解決、日本治金、鴨川化工、石油開発公団 |
恩師・恩人 | 新渡戸稲造(学資、仲人) |
人脈 | 安倍能成(妻:藤村操妹)、岩切章太郎、北沢敬二郎(住友同期)賀川豊彦(住友組合長)山本為三郎、藤原銀次郎(相談役)、坪内寿夫、川田順、大屋敦 |
備考 | クリスチャン、実父友:高橋是清 |
1887年8月15日 – 1972年1月28日)は東京生まれ。実業家。住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長、石油開発公団初代総裁などを歴任。大正8年~10年欧米出張。昭和6年住友伸銅鋼管取締役、7年住友別子鉱山常務、専務を経て、16年住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長、同年住友本社理事。この間住友機械製作(現住友重機械工業)、大日本産業報国会理事などの役員を兼務。30年石油資源開発初代社長。以降北スマトラ石油開発協力初代会長、石油鉱業連盟会長、1967年10月石油開発公団(のちの石油公団)初代総裁を歴任。労務管理、工場安全運動などの草分け的存在。
1.新渡戸稲造先生排斥運動
一高記念祭の夜の全寮茶話会で、新渡戸校長排斥の演説が突然のろしを上げた。陸軍次官の子で石本恵吉(加藤シズエ氏の亡夫)や末廣厳太郎が立って「新渡戸先生は八方美人でかつソシャリティ―を唱え、一高の校風を破壊するものだ。記念祭に婦人の優先入場を許すなど、欧米謳歌主義を持ち込み、けしからん」と攻撃した。すると新渡戸先生が立ち上がった。「私はいつでもここに辞職願を持っている。もし皆さんが私の方針が間違っているというなら、いつでもやめる。だが、これからの青年はもっと人間のふれ合いを外に目を開かなくてはならぬ。数十年後今夜のことを思い出してくだされば満足である」と悠揚話された。
三部(医科)にいた佐々木好母という学生が演壇に駆け上がって「三尺下がって師の影を踏まずというのに、今先生を目前にして・・・」と言って泣いて訴えた。鶴見祐輔、前田多門君らも立ち上がり、前田君などは、ヤジ連中に向かい「オオカミの遠吠えどもよ」と叫び、毅然として信念を吐いた。私たちは感極まってみんな泣き、しゅんとしてしまった。真剣な学生生活の一断面であった。
2.就職先の選択に悩む
東大卒業の前年の夏、私は軽井沢に恩師新渡戸先生を訪ねた。将来の道を相談するためであった。私は新渡戸先生から苦学はするな、楽学をしろといって月々学資を補ってもらっていた。先生は「君は官吏になりたかったようだが、今の時世はもう官吏の時代ではない。民間こそこれからの人材を要求しているところだ。君もひとつ民間の仕事に進んでくれ」とのことだった。「ではどこにしましょう」と私は尋ねた。
「住友が良いだろうと思うがどうかね」私は民間の会社なら三菱あたりを選ぼうと思っていた。しかし先生は、住友の方が未完成の面白さがあるし、友人の久保無二雄という立派な人が理事をしているから、と言って住友を進めてくれた。私の心は、そこで一も二もなく住友に進むことに決まった。
3.米国に労使関係の勉強へ
大正8年(1919)秋、入社5年目に鈴木総領事から「米国フォードの労使関係の調査」を命ぜられた。これには伏線があった。入社間もないとき、真夜中に電話がかかってきた。「ただいま重傷者が出たからすぐ来てくれ」と守衛が叫んでいる。現場に駆け付けると、新人の工員が誤って切断機のギヤーに巻き込まれてズタズタに砕かれて血にまみれた肉片と白骨の塊と果て、ムシロがかぶせてあった。この惨状に私は気が遠くなった。しかしそれにもまして大衝撃だったのは、急を聞いて赤ん坊を負ぶって駆け付けた若い細君にこの亡骸を見せた瞬間だった。私はこの時から一生を安全運動に捧げようと固く胸に刻んだのであった。
デトロイトのフォード社を訪れ、「私は住友本社から派遣されて労働者の待遇研究に来た。まず最初の2か月は労働者として、次の2か月は事務員として、最後の2か月は自由研究員として、使って欲しい」と頼んだ。5万5千人の職場にはアルメニア人、イタリア人、ロシア人など58か国の人が働いていた。私が最初に配属されたのは小さなクギを作るところだったが、私は希望していろいろな作業場に回してもらった。土曜日も8時間びっしり働かされた。3日目には帰りの電車の中で鼻血が出たほどだ。それに参ったのは鋳物場の熱さだった。私の足の裏はたちまちクチャクチャになり真っ白く変色してしまった。
職工と事務員の期間が終わると、最後の自由研究期間に、私は全米のフォード関係の工場をくまなくみせてもらった。そしてこれらの体験を、私は昭和3年(1928)に雑誌「改造」に書いた。その内容は、①独創的なコンベアー・システムによる合理化された低コストの生産、②自分と共にした人々を重要地位に引き上げる、③フォードの考えは、車を造るのが主でなく人を創るのだ、の3点であった。