掲載時肩書 | 日本製鉄名誉会長 |
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掲載期間 | 2024/04/01〜2024/04/30 |
出身地 | 群馬県前橋 |
生年月日 | 1940/11/02 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | ハーバード大学MBA |
入社 | 富士製鉄 |
配偶者 | 入社2年目・同郷1歳下 |
主な仕事 | 室蘭製鉄、ハーバード留学、大分製鉄、経営刷新会事務局長、営業部、ゴーンショック、アルセロール、ポスコ、ミタルスチール、ソフトアライアンス、住金統合、日商会頭、渋沢栄一プロジェクト |
恩師・恩人 | 小宮隆太郎、永野重雄、今井敬、千速晃 |
人脈 | 曽我孝之、小枝至、李亀沢、出井伸之、中村邦夫、御手洗富士夫、ミタル会長、宗岡正二、下妻博、友野宏、稲盛和夫、岡村正、岡素之、小林健 |
備考 | 実家:うなぎ料亭、 |
氏は日本製鉄系で「私の履歴書」に登場した稲山嘉寛、永野重雄、斎藤英四郎、今井敬の諸氏に次ぐ5番目である。掲載4日目に、東大受験の合格通知を受ける直前に父親が享年49歳で亡くなり、父親を喜ばすことができなかった人生で、自分の思うようにはいかないことと悟った。この経験から、周りの人への配慮や思慮深い人物になったように思えた。
1.経営の大合理化・・・(注:今井敬氏はこの合理化を「私の履歴書」で詳しく記載)
1986年8月に発足したスティール・プラニング・コミッティ(SPC)は14人の取締役で構成した。生産や営業など各部門、さらに旧富士と旧八幡のバランスにも配慮した顔ぶれで、円高を乗り越えるための全社最適の合理化計画を取りまとめることになった。経営企画部部長代理の私がこの会の事務局のトップに任命された。八幡と富士の合併会社ゆえのうわべの社交を脱ぎ捨て、本音で議論するコンセンサスがメンバーの建議から成立した。社内だけでなく、社外からも企業城下町の北九州市、北海道室蘭市、岩手県釜石市などの県知事や市長が上京し、「高炉の火を消すな」の声を切々と必死に当社首脳に訴えた。
こうした顛末を経て、経営の骨子が固まったのは87年2月。当時12基あった高炉のうち中型高炉5基を閉めるという鉄鋼業の歴史でも未曽有の大型リストラだった。閉鎖対象の高炉は八幡、堺、広畑、釜石、室蘭の5基(うち室蘭の高炉だけは別会社として切り離し、三菱製鋼の出資を仰いで存続した)。痛みは地域社会だけでなく、社員にも及んだ。結果からいえば6万8千人いた社員が合理化後は1万7千人、つまり4分の一に縮小した。とはいえ、いわゆるレイオフは一人もしなかった。多角化と称して新規事業を立ち上げた。半年足らずのSPC事務のトップだったが、そこで得た学びは米国留学よりも何倍も大きかった。
2.トヨタとの鋼材値上げ交渉(4月間で26回)
経営企画から営業部門へ異動し、1989年6月に自動車鋼板販売部長に任命された。その際に取り組んだのが9年ぶりの鋼材値上げで、業界に影響力のある最大手のトヨタ自動車が交渉相手だった。トヨタがクビを縦に振れば、他の自動車会社も値上げを受け入れるだろう。他方でトヨタも簡単には譲れない。鋼材の値上げに応じれば、部品メーカーが使う鋼材の値段も上がるので、部品価格全般が上昇する。アルミなど他の素材にも値上げが波及する可能性もある。したがって、両社にとって極めて慎重に対処すべき、社長レベルの重要マターとして扱われていた。
交渉役は当社が部長の私、先方は資材担当の部長が担うことになり、91年4月に最初の申し入れを行った。最終的に7月下旬に妥結したが、実質4か月の交渉の間、実に26回もの対面での交渉を重ねた。最初は何を主張しても好反応は得られない。それでも、面談の中で挙がった先方の疑問点をまとめ、あるいは、当方の主張をもう一度整理したうえで次の交渉に臨んだのだった。
3.ゴーン・ショック(イエスか、ノーか)
カルロス・ゴーン日産自動車社長の経営合理化改革が始動した直後、1999年秋、日産自動車の銀座本社に出向くと、先方の小枝至副社長が「鋼板サプライヤーを集約したい。ついては、御社のシエアを倍増させるので、鋼板価格を引き下げてほしい」と単刀直入に切り出した。
当時、日産には高炉メーカー5社が鋼板を納入していた。当社の納入シエアは約3割、他社は1~3割でほぼ横並びだったと思われる。当社シエアが倍増するということは、他の高炉メーカーのうち、1社か2社が購買先から外される、もしくは大幅にシエアダウンさせられることに他ならない。削減対象のメーカーにとっては極めて衝撃的で影響甚大、まさにゴーン・ショックそのものであった。当時の自動車向け鋼材は限界利益が大きく、受注数量が増えれば、利益も膨れる。一方、リーディングカンパニーとしての当社の評判を傷つけ、日産から外された高炉メーカーが他の自動車メーカーに猛烈にアピールし、シエアを増やすために値下げを仕掛けることも当然予想された。その結果、価格競争が激化し、当社も深刻な「返り血」を浴びることが懸念された。そんな血みどろの価格競争が自動車以外の市場に飛び火する恐れもあった。
1999年11月11日に日産に出向き、提案を受け入れる旨、回答した。その結果、当社の業界シエアは6割になったが、予想されたように競争は激化した。何より大きな影響はこのシエア変動がJFEホールディングスの誕生と、新日本製鉄と住友金属工業の統合という鉄鋼業界の再編集約を促す強力な一撃になった。
4.国際提携と欧州の拠点づくり
2000年春に常務から副社長に昇格した。その際に千速晃社長から言い渡された特命事項が、当時欧州最大の鉄鋼メーカーだった仏ユジノールとの戦略提携だ。20世紀末は独ダイムラー・ベンツの米クライスラー買収など自動車産業の地球規模的統合が加速した時代だった。製鉄会社にとっても他人事ではない。事業のグローバル展開を進める自動車会社からは、高品質の鋼材を世界中どこでも安定的に供給できる体制をつくってほしいという催促がしきりだった。これに応えて、米国やアジアに展開したが、欧州だけはぽっかり「穴」が開いていた。
そこで千速さんがひねり出した案が提携だ。ユジノールと厳密な秘密保持契約を結んだうえで、新日本製鉄の有する最先端鋼板の生産ノウハウを先方に提供する。そして先方の製鉄所から、トヨタ自動車はじめ日系メーカーの在欧工場などに出荷する作戦だ。交渉は01年に無事妥結し、パリで両社の社長が共同記者会見を開いたが、この会見の2か月前にユジノールはスペインとルクセンブルグの鉄鋼会社と経営統合し、アルセロールの名前で再出発していた。
5.ミタルの敵対的買収への対応
2003年4月1日、千速社長の後を継いで社長となった。社長業も何とか板についてきた2006年1月の朝、9時からの経営会議の直前に1本の国際電話が入った。買収に次ぐ買収で勢力を拡大してきた鉄鋼業界の風雲児、ミタル・スチール(オランダ)のラクシュミ・ミタル会長だった。受話器を取ると「1時間ほど前に取締役会でアルセロールの買収を決議しました。世界で最初に三村さんにお伝えします。どうぞご協力ください」という。それ以前のミタルの買収先は途上国の旧国営製鉄会社などが中心であり、欧州を代表するアルセロールのような業界のど真ん中の会社が標的になろうとは・・・。しかし、ミタルが一流の製鉄会社になるために必要な技術力を獲得するには極めて合理的な判断だった。
この1時間後、今度は提携先の韓国ポスコ・李亀沢会長から電話があった。ポスコにも同様の連絡があったらしく、「三村さん、これは敵対的買収ですかね。新日鉄はどうされますか」と聞いてきた。新日鉄はミタルとも深い関係があった。米国での合弁相手だった中堅高炉のインランド社がミタルの傘下に入り、合弁事業の相手がミタルに切り替わっていた。ミタル会長と私も国際会議で定期的に顔を合わせる関係だった。
両陣営のにらみ合いが続く中で、新日鉄としては一つのifを想定していた。それはアルセロール側から「ホワイトナイト」を頼まれた際の対応だ。ギー・ドレCEOらはもし買収されるのが不可避なら、ミタルでなく、気心の知れた新日鉄の傘下に入る方が好ましいと判断するかもしれない。そこで当社にホワイトナイトの要請があった場合、どう答えるか。ミタル会長がぜひ協力してほしいと電話してきたのも、この可能性を意識してのことだろう。私の結論は「断るしかない」だった。
結果からいえば、アルセロールからの依頼はなく、その代わり同社はセベルスターリというロシアの製鉄会社にホワイトナイトを依頼した。この発表が投資家の不評を買うことになり、ミタルの提案に支持が集まり06年6月、アルセロール取締役会はついに白旗を掲げてミタルの提案を受け入れた。ミタル帝国の次の狙いは東アジアで、その標的は自分たちかもしれない。それに対抗するため私は、ソフトアライアンスで国内では住友金属工業と神戸製鋼所との3社提携。海外では韓国ポスコとの持ち合い拡大やインドのタタ製鉄との戦略提携を急いだ。