掲載時肩書 | 東海銀行会長 |
---|---|
掲載期間 | 1983/06/22〜1983/07/16 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1911/02/27 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 日銀 |
配偶者 | 井上準之助娘 |
主な仕事 | 岡山、京都、名古屋、大阪、理事2期、東海銀行、名商会頭、南山大学国際プロジェクト、テレビ愛知 |
恩師・恩人 | ?大佐(命の恩人) |
人脈 | 土屋清(一中)、新木総裁・山際総裁の秘書、永野重雄、中村直勝、土川元夫、東竜太郎、竹田弘太郎 |
備考 | 俳句、謡曲、ペースメーカー手術3回 |
1911年2月27日 – 1996年9月7日)は大阪生まれ。銀行家。日本銀行総裁井上準之助娘婿。1987年JR東海会長。1949〜1956年名古屋商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭もつとめた。
1.日銀・大阪支店長に就任
私は昭和37年〈1962〉12月に、日銀理事に任ぜられた。日銀の理事というのは、普通の会社でいえば常務または専務に相当する立場である。翌38年に大阪支店長として赴任した。大阪支店長という立場は、関西の優れた経営者各位に接する機会が非常に多く、私としては得るところが甚だ多かった。宇佐美洵総裁からは、「日銀のポストの中で、財界人と接触の一番多いのは、総裁に次いで大阪支店長である。大いに活用しなさい」と激励された。
当時、大阪の金融界に「木曜会」という集まりがあった。この木曜会というのは、戦争苛烈になったころ、大阪の金融界のトップの人たちが時々集まって連絡や相談を密にすべき必要が感じられ、上田短資の創始者上田要さんが世話役となって、日銀支店長と地元3銀行の頭取とが毎週木曜日に集まることになった。
2.義父・井上準之助との因縁
昭和42年(1967)11月、私は東海銀行取締役副頭取に選任された。とりあえず東海銀行の社宅を借りて住むことにした。その社宅はある程度の広さもあったので、家具類も若干買い揃えなければならない。そのとき妻の末弟から、自分の家の物置に古いタンスがあるから要るならあげるようとのこと、早速貰うことにした。そして、そのタンスが着いて開けたら、中に紙包みが入っており、それを開けると、何とこれは妻の父(井上準之助)が昭和7年(1932)凶弾に倒れた時に着ていた洋服で、その時の傷跡が付いたままであった。
私は井上氏の不慮の死の時、その魂が私に乗り移ったかと感じ、またその後、その娘と私が結婚することになったなど、不思議な縁を感じたが、さらにここで、36年間遺族もすっかり忘れていた同氏の最期の着衣が、わざわざ名古屋まで送られてきて私の家で日の目を見るに至った。ますます不思議な因縁を感じざるを得ないのである。
3.国際姉妹都市の提携
名古屋はロサンゼルス市と昭和34年(1959)以来姉妹都市になっている。市と商工会議所が一緒になって、両市の提携関係は年々親密の度を加えてきた。昭和51年(1976)には、米国の建国200年周年でもあり、ロサンゼルスの日系人街では盛大なパレードが行われ、私も妻とオープンカーに乗ってこれに参加した。同市の日系人を中心に日本文化会館建設の議が起こり、日米両国民の協力によって今日では既に立派な会館が出来上がっているが、これに関する日本側の募金については、私たち名古屋の経済人は、姉妹関係ということもあって中心的な推進力となった。
中国との友好都市提携は、かねて先方へ申し出てあったが、先方で日本各地からの要望を取りまとめた後、名古屋市は南京市と、愛知県は江蘇省との提携が決まった。
オーストラリアと当地とは経済的に密接な関係にあるので、かねて姉妹提携をしたいと考えていたところ、あるとき某氏の紹介でブラックさんという人が私を訪ねてきた。昼食を食べながら、姉妹提携の話を出してみたところ、先方は大変乗り気になり、提携先の空いている市を調べてくれて、シドニー市がそれだとわかり、同市長へアプローチの方法なども親切に教えていただいた。同氏の示唆に従い、まず市長へ手紙を出す、東京駐在のオーストラリア大使に助言を頼む等の後、シドニー市長ミーヤズ氏を訪問して直談判に及んだ。ともかく一度名古屋を見てくれと話し、やがて先方が名古屋へ来て実情を見るに及んで、提携問題は一挙に解決した。