輸送用機器・手段
| 掲載時肩書 | ルノー会長 |
|---|---|
| 掲載期間 | 2005/10/01〜2005/10/31 |
| 出身地 | スイス |
| 生年月日 | 1942/07/08 |
| 掲載回数 | 30 回 |
| 執筆時年齢 | 63 歳 |
| 最終学歴 | 仏国国立行政学院 |
| 学歴その他 | パリ政 治学院 |
| 入社 | 会計検査官 |
| 配偶者 | 弁護士 |
| 主な仕事 | 医療福祉機関、予算局、官房長、ルノー 、経営企画、コスト削減、ボルボX、F1X |
| 恩師・恩人 | ローラン・ファビウス |
| 人脈 | A・シュバイツアー博士(父の大叔父)、サルトル(親戚)、ENA校(ジスカールディスタン、シラク)、ミッテラン、ジャック・アタリ、べス、ゴーン、塙儀一 |
| 備考 | 父・IMF専務 |
1942.7.8~スイス生まれ。父はフランスのエリート官僚で国際通貨基金(IMF)の専務理事。日産の会長カルロス・ゴーンを見出した。日本の経済界では、日産と提携したフランスのルノーの元会長として知られている。
1.国立行政学院(ENA)
パリ政治学院で法律科を終了した私は1965年、エリート養成学校で知られる国立行政学院(ENA)に入学した。約28か月の履修期間の半分を企業での研修や地方公務員として勤務することに費やし、残り半分が授業という構成だ。フランスには「エナルシ―」という言葉がある。ENA出身の高級官僚らをまとめて呼ぶが、そこから発展してENA出身者による支配体制を指すこともある。
ENAが仏国を代表するエリート校であるのは間違いない。第5共和国の5人の大統領のうち、ジスカールデスタン元大統領とシラク現大統領はともにENA出身だ。首相経験者では14人中、6人がENAを出ている。あたかもENA人脈には強い結束があり、権力を持ったコミュニティーを形成しているかのようだ。
しかし、実情はやや異なる。同じ入学年の100人でも授業で机を並べるのは週12時間、14か月しかない。学生同士の交流は少なくそれぞれ独立して動いている。残りは企業研修などでバラバラになってしまう。コミュニティーを築くことが物理的にできないのだ。競争ばかりしているせいか、同窓会を開くという発想もない。席次によってどこに就職できるかが決まるので、みんな必死だ。高級官僚など、最高位の職種につくのは上からせいぜい15番目まで。外での研修、ゼミへの参加、口頭試験、筆記試験・・。あらゆるものが評価対象となる。私は上位10番以内にいたので、財務省に属する会計検査官に入ることができた。
2.ボルボと提携
1988年初め、ボルボのジレンマハー会長がルノー本社を訪れ、ルノーのトラック部門子会社を買収したいと提案してきた。私は赤字のこの子会社はこのままでは生き残れないと考えていたので、売却には賛成だった。ルノーのレヴィ会長は即答を避け、数週間後にトラックだけでなく乗用車を含めた包括的な提携を提案した。トラックと引き換えに手に入れる事業があった方が有利だと判断したのだ。
ボルボは乗用車の上位車種を持っていたし、ルノーよりも国際的なのが魅力的だった。私はCFOという責任ある立場もあり英語も堪能だったので率先して交渉担当を引き受けた。90年2月23日に基本合意に達し、当時の自動車生産台数で世界6位、売り上げで4位の巨大な自動車グループの誕生となった。しかし、残念ながら数年後に破談となってしまうのだが・・。
3.ルノー公団から株式会社に
ルノーはボルボとの提携の際に法律上の形態は株式会社に変わったが、株式の一部を公開した後も仏国政府の保有比率が過半を超え、一般には引き続き「ルノー公団」と呼ばれていた。94年9月13日にまず、保有株式の一部公開を決め、11月に株式の売却を始めた。ルノー株の政府保有比率はそれまでの79%から下がったが、なお過半にあたる50台前半を握り国営企業のイメージは変わらなかった。遅れた理由は、株式会社化を進めるうえで、雇用不安を感じる労働組合の強い抵抗があった。私は日ごろ社員の話にキチンと耳を傾けてきた。そんなとき、社員は私が彼らの主張に気にかけ敬意を払って考えているかどうかを見ていた。その中で信頼感が生まれ、お互いに尊敬しあえる気持ちが芽生えていった。良好な関係を感じたので、民営化への抵抗は少ないとみて、株式会社化を進めることにした。
そして1996年7月、政府は持ち株の一部を売却し、政府の株式保有比率はついに46%に下がった。本社の「ルノー公団」の看板から公団の二文字が消え、名実ともに株式会社ルノーがスタートした。民営化したからにはこれまで以上に収益性を高め、国際競争に勝てる体質にしなければならないと思った。
氏は2025年11月6日、83歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は20年前の2005年10月で63歳でした。氏の大叔父にノーベル平和賞を受賞したシュバイツァー、いとこに哲学者サルトルがいた。父親は1963年から73年まで国際通貨基金(IMF)の専務理事だったので、日本人には父親の方が良く知られていた。
1.冒頭(ルノーとフランス経済)
ルノーの最高経営責任者(CEO)の座を、日産自動車を見事に再建したカルロス・ゴーンに引き継いでから約5か月が過ぎた。12万6千人の社員がおり世界に拠点を置くルノーという大組織を、これからは彼が引っ張っていく。私が前任のレイモン・レヴィからトップの座を継いだ1992年にはフランス政府がルノーの株式の過半を握り、経営にも影響を及ぼしていた。いまは政府の株式保有率は15.7%にすぎず、経営への干渉はありえない。「普通の民間企業」としては今回が初のバトンタッチになる。
CEOを辞し執行役員会にも出なくなったが、ルノーの取締役の会長はいましばらく続ける。時間の2割はなおルノーのために割く毎日だが、経営と戦略立案はゴーンに任せ助言以外の干渉はしない。オフィスも本社7階の会長室から、旧本社ビル1階に移った。ちょうどよい距離だ。
私も代表の一人になっているフランス財界では、フランス経済が活気を取り戻し、国際競争力を増すにはどうしたらよいかという議論がかまびすしい。フランスは追い詰められており、労働者保護や社会的権利を重視するフランス型社会モデルも見直さなければならないという声も聞く。多くの人たちは、「企業が失敗するから皆、不幸になる」と言う。しかし、逆もまたしかり。企業が成功すれば皆が勝者になれる。これはルノーの経営を通しての私の確信だ。国際競争に挑み、成果を挙げているフランス企業があるかぎり経済は活性化し、国家は繫栄できる。
2.私の信条
厳しい局面に会うたびに、力を与えてくれたのは私を支持してくれた社員たちだ。私は常に人の話をじっくり聞くことに心がけ、社員の考えを尊重してきた。それをみんなも感じ取ってくれ、互いに尊重し合える関係を築けた。その上で意思決定をしてきた。
それは日産など提携先企業との関係でも同じだ。一方的にこちらのやり方を押し付けるのではなく、相手を尊重し、気を配ってよい関係を作り上げていく。人の話に耳を傾けることは必ず役に立つ。人生を振り返って、はっきりとそう思う。
3.米国生活から得たもの
子供時代の米国生活も、人生の中で大きな出来事だ。1947年秋から48年春と49年秋から53年初めまで、財務省に勤めていた父の転勤に伴い、首都ワシントンで過ごした。現地ではアメリカン・スクールに通った。フランス人は私一人だけだったが、いじめられることもなく、友達もでき快適だった。
政治の動きなどを通して、子供心にアメリカン・ウエイというものに衝撃を受けた。なかでも、連合国最高司令官として日本の戦後処理で活躍したダグラス・マッカーサーのことはよく覚えている。マッカーサーは朝鮮戦争も指揮したが、ハリー・トルーマン大統領と対立して司令官を解任され、1951年に米国に戻ってきた。ワシントンでは私の目の前を、マッカーサーらを乗せた車が隊列を組んで通過した。米議会で同氏が演説した時には学校でクラスの全員がテレビ中継を食い入るように見つめた。「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ」という有名な言葉を放った瞬間だ。
飛行機に乗って海外に行く機会がまだ少なかった時代に、米国で生活して、フランスとはまったく違った世界を知ることができた意味は大きい。人格形成や、オープンなものの見方を培うのに役立ったと思う。
*日本経済新聞「評伝」2025年11月9日(一部抜粋)
氏は大統領を輩出した国立行政学院(ENA)でエリート教育を受けて財務検査官、さらには当時の社会党ニューリーダー、ファビウス氏の側近として頭角を現した。
転機が訪れたのは総選挙で社会党が敗れた86年だった。「全く違う人生を」と公団時代のルノーに転出した。会長兼CEOになった92年はスウェーデンのボルボとの経営統合を前に進める難事業の最中にあった。統合後に「黄金株の取得を」と言い出す仏政府、取り込まれるのを嫌がるボルボ。間にはさまれつつ、交渉相手から信頼を勝ち得たシュバイツァー氏だったが、結局は失敗の辛酸をなめた。当時の教訓が日産との交渉では生かされたのか。まず交渉の主導権を握った独ダイムラークライスラー(当時)の経営陣が居丈高だったのに対し、シュバイツァー氏は辛抱強く、紳士的で、謙虚でもあった。
ダイムラーの撤退後、日産にはルノーが唯一残った交渉相手になったが、そうした姿勢は変わらず、出資後も日産を「パートナー」と呼び続けた。実際の再建には自ら仏ミシュランからスカウトしたゴーン氏を送った。コストカッターといわれる同氏がルノーで進めたターンアラウンド手法を日本でも実践することを支持し、日産は業績のV字回復を遂げた。シュバイツァー氏は2005年にルノーCEO職もゴーン氏に譲った。両社は三菱自動車を含めて17、18年に世界販売台数が商用車を除き首位になったが、一方で無理な拡大路線が今の日産の経営悪化の一因にもなった。
ルノーと日産の関係が悪化、アライアンスが大きく後退した最大の要因はルノーが日産との経営統合を強行しようとしたことだった。シュバイツァー氏も統合には賛成だったとの見方があったが、18年のゴーン氏逮捕以降の混乱、両社の関係悪化のプロセスを晩年の同氏がどう感じていたか直接聞いてみたかった。 (本社コメンテーター 中山淳史)