掲載時肩書 | 画家、サンパウロ在住 |
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掲載期間 | 1993/12/01〜1993/12/31 |
出身地 | 熊本県 |
生年月日 | 1924/09/14 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | コーヒ- 小作 |
配偶者 | 俳句娘 |
主な仕事 | ブラジル移民1934年(~41年間)、敗戦認識組、絵描き、大統領から大賞授与、帰化、南米、欧米で個展 |
恩師・恩人 | 高岡由也、 マタゾーラ |
人脈 | 三島由紀夫、川端康成、岡本太郎、財閥マタゾーラ、天野芳太郎(発掘招待)、細川護熙 、 |
備考 | 遺跡発掘、3200作品、年間50作 |
1924年(大正13年)9月14日 – 1997年(平成9年)9月22日)は熊本生まれ。日系ブラジル人の画家。日本生まれであるが後にブラジルに移住し、同国を中心に活動した。画風は初期は具象画、後期は暖かな色調・筆の抽象画へと大きな画風の変遷がある。間部の抽象画は「ブラジルのピカソ」とも呼ばれた。作品の多くは現在、生地の熊本県宇城市「不知火美術館」に所蔵されている。
1.ブラジル式誕生パーティ
大がかりなパーティをやり始めたのは、1959年(35歳)からだった。あるときは、ビキニのサンバ嬢たちが踊りながら庭に入ってきた。体の周りの風船を割ったらボディに「パラベンス、マベ」(間部、誕生日おめでとう)と書いてあった。最近ではランバダの踊り子が繰り出し、みんなで一斉に踊ったりもした。とにかくブラジルらしくにぎやかである。わが家は敷地面積が9000㎡、建物もトイレも14か所もあり、何人でも受け入れる。
2.コーヒーの収穫期
コーヒー園の小作時代、3月になると緑色だったコーヒーの実が色づいて黄色になる。そろそろ収穫の準備を始める。まずコーヒーの木と木の間に土を寄せて小さな山をつくる。コーヒーの実が地面に落ちた時、転がって木の根元に集まるようにとの工夫だ。
5月から8月までがほぼ収穫期で、農作業は多忙を極める。まず二日間かけて、赤くなった実を全部手で千切って落とす。みんな土手に当たって下に集まる。三日目にはこれを熊手のようなものでかき集める。作業はこうして三日サイクルでどんどん回転する。三日目の夕方になるとパトロン(地主)のトラックや馬車がやってきて、コーヒーを運んで行く。1俵が60kgくらいあり、早くこれを担げるようになりたいものだとよく思った。夢が実現したのは14歳の時で、ようやく一人前になれたと、うれしくなったものだ。
3.ブラジルに帰化
あちこちの展覧会で絵が入選し始めたころ、財閥で実業家のマタラーゾ氏が「間部はブラジル人じゃない、日本人だと陰口を言う人がいる。僕はそんな風には考えないが、帰化したらどうか」と持ちかけてきた。確かに日本で生まれ、血は100%日本人だし、国籍も日本のまま。それでも不思議なことに、ブラジル代表であちこち出品してきたし、ブラジル代表として受賞もしてきた。不都合がなかったから国籍は気にしなかった。
外国の展覧会に応募するときなどは国内の競争も厳しい。代表になれば、外務省の便宜も受ける。移民の国とは言え、外国籍では・・と感じる人がいてもおかしくはない。思案した挙句、1960年、第30回ベニス・ビエンナーレへの応募を機に帰化することにした。妻のよしのに相談するとすぐ賛成してくれた。
4.インカ遺跡発掘に誘われる
ブラジルで事業に成功し「南米のシュリーマン」と言われる天野芳太郎さんから、遺跡発掘に誘われた。天野さんは遺跡の発掘を政府から認めらており、発掘用の承認プレートのついたジープに乗っていた。
最初のチャンカイはリマから北へ70kmの辺りにあるプレ・インカの遺跡で、今から3千年前に栄えたチャン期の茶わんを中心に探した。砂漠の中の遺跡を回ると、村人が何気なく近づいてきて、盗掘した土器や織物をバナナ畑から持ち出してくる。たいしたものはないが5ドル、10ドルと安い。いいものは街の骨董店でないと手に入らないが、ここでも30~50ドル程度だ。私の購入趣味を見て天野さんは、「やっぱり絵描きだねぇ。買うものにみな表情がある」と笑っていた。
結局この時も含め、100点ほどを収集し、応接間に飾ってある。茶わんや壺、クチミルコ(埴輪)が中心で、形の面白や長い年月を経て自ずとにじみ出てくる味わいの深さに感じるものが多い。トックリ一つとってみてもいろんな動物の形態を模しており、生活の豊かさを物語っている。