掲載時肩書 | 元駐日米大使 |
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掲載期間 | 1999/09/01〜1999/09/30 |
出身地 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1903/03/16 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 96 歳 |
最終学歴 | 米国モンタナ大学 |
学歴その他 | |
入社 | 大学講師 |
配偶者 | 教師 |
主な仕事 | 下院議員、アジア調査団長、上院議員(外交上、予算下)、院内総務、越爆反対、駐日大使、 |
恩師・恩人 | |
人脈 | ケネディ、ジョンソン、ダレス、ニクソン、シアヌーク殿下、周恩来、レーガン、中曽根、ライシャワー、 |
備考 | 皇太子ご夫妻の米国訪問時同行 |
1903年3月16日 – 2001年10月5日) はアメリカ合衆国生まれ。政治家。ニューヨーク生まれのモンタナ州育ち。モンタナ大学卒業。所属政党は民主党。1953年に初当選後、1977年の任期満了をもって引退するまでの24年間にわたって上院議員を務め、そのうち1961年から1977年までの16年間は多数党院内総務を務め、上院民主党の大物として活躍した。この16年という任期はアメリカ史上最長であり、現在でも破られていない記録である。また知日派としても知られ、1977年から1989年までの長期にわたって駐日大使を務めた。
1.「安保ただ乗り論」に対する私の見解
1980年代の初め、米国内で日本は経済成長にばかり走り、憲法第9条を理由に防衛は日米安保条約に頼り放っしという「安保ただ乗り論」が沸き起こった。この批判は米議会が事実を知らないことから起こった。
まず、戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は、マッカーサーの直接の指示を受けてGHQ民生部のチャールズ・ケーディス次長を中心に作った条項でどこから見ても米国製だ。日本に戦争を放棄させ、安全保障を米国頼みにさせたのは米国である。米国人はこの条項を批判すべきではない。第二に日本は安保ただ乗り国家ではない。湾岸戦争の時も戦費の実に22%を負担したのは日本だし、のちにペルシャ湾の機雷除去のための掃海艇も派遣している。いわゆるシーレーン防衛体制も固めているし、在日米軍の駐留費用の70%以上を負担している。こうした事実関係を理解せずに日本を批判するムードが今後は強まらないよう期待するばかりだ。
2.ケネディとジョンソンと私の関係
米下院議員になって10年を経た1952年の選挙で、すでに下院の民主党院内幹事に私はなっていた。しかし翌53年、自分と同時に上院議員になったのが、まだ30代のジョン・F・ケネディだった。我々は下院でも仲間だったが、上院に転じてからは議場の席も隣り合わせで関係が一層深くなった。上院にはケネディが暗殺された後に大統領を引き継いだリンドン・ジョンソンもいた。ケネディとジョンソン、私は仲の良い友人同士だった。上院2期目に入った57年、ジョンソンが民主党の支配する議会の最高指導者である上院院内総務になり、私に上院のナンバー・ツーである院内幹事就任を要請してきた。「私を助けるのは君しかいない」と言われて受諾したのだった。
そして61年、ケネディが第35代の米大統領になった。副大統領にはジョンソンが就任、私の友人がとうとう米国を動かすナンバー・ワンとナンバー・ツーだ。そして私は上院院内総務になってしまった。ジョンソンとケネディという二人の偉大な政治家との出会いと親交がなければ、こんな重職につくはずもなかった。
3.ベトナム介入・拡大反対レポート
1962年の後半、ケネディ大統領に突然呼ばれ、「ベトナムに調査に行って欲しい」と指示された。私は他の米議員らと共に、まずカンボジャ、そしてベトナムに入り、南ベトナムのゴ・ジン・ジェム大統領とも会談した。当時、ベトナム情勢はすでに混迷していた。ケネディ大統領は61年に「軍事顧問団」という名目で南ベトナムに米軍を送っていた。大統領はベトナムを知る私にこの計画が有効に機能しているかを確認させ、次の一手をどうすべきかの助言を期待していたのだろう。
ベトナムから帰国してすぐに報告書をまとめ、12月下旬にフロリダ州のパームビーチでクリスマス休暇中の大統領に届けた。内容は「軍事介入反対」だった。報告書を読み進むうちに、大統領の顔はみるみる紅潮していった。最後に「マイク、これは国防省や国務省、他の報告書内容と随分と違う」と彼はつぶやいた。
そして彼は、「大統領選挙が近すぎる。いまは何もできないが、大統領選後にはベトナムからの米軍の部分撤退を検討するつもりだ」と、明確にそう言った。この翌年に不幸な暗殺事件が起こったのだった。