掲載時肩書 | 日産自動車社長 |
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掲載期間 | 2017/01/01〜2017/01/31 |
出身地 | ブラジル |
生年月日 | 1954/03/09 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 63 歳 |
最終学歴 | 仏国パリ国立高等鉱業学校 |
学歴その他 | レバノン高 |
入社 | ミシュラン |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | ルノー、日産、再生プラン、中国東風汽車、英工場、ロシア企業、ダイムラー |
恩師・恩人 | フランソワ・ミシュラン会長、ルイ・シュバイツアー |
人脈 | ロバート・ラッツ、塙義一、志賀俊之、西川広人、中村史郎、ブレア首相、プーチン大統領、ツエッチェ会長、益子修 |
備考 | 主義:アイデンティティを失わず多様性を受け入れる |
氏は、日産系でこの「履歴書」に登場した鮎川義介、川又克二、石原俊に次いで4人目である。因みにトヨタは5人。氏はブラジルで生まれ、幼少期レバノンで過ごし、大学はフランス、米国でも長く生活している。民族・文化の違った多様性の中で育ってきた。仏国の上位の大学、いわゆるグランゼコールは旧仏領の国や地域から精鋭を集める機関であり、旧植民地出身でも社会的階層を駆け上がれる機会を用意しているのだった。氏は、多くの大統領や高級官僚を輩出しているエコール・ポリテクニーク(国立行政学院:ENA)を卒業した。
1.少年時代
ブラジルで生まれたが、アマゾン川流域は高温多湿で蚊が多い。私は井戸水をそのまま飲んで高い熱が続き、生死をさまよった。医師は両親に「気候のもっといい所に引っ越しなさい」と言った。両親は話し合った結果、母と姉、私はレバノンに移り、仕事のある父はブラジルに残ることになった。
幼少期に私が住んだレバノンのベイルートはアラブ諸国では珍しく男女平等の精神が当然のように行き渡っていた。多様な宗教が同居し、少なくとも1975年の内戦までは「中東のスイス」と言われ、平和だった。
レバノンは第1次大戦後にシリアから大レバノン共和国として独立したが、フランスの統治下に入っていた。アラブ圏に属しつつ、フランス語圏にも属す。レバノン人はそれを違和感なく受け入れ、複数の文化への帰属を意気に感じていたところもあった。
私はそんな環境で多感な10代を過ごした。通った学校は「コレージュ・ノートルダム」と言い、イエズス会系で高校までの一貫教育校だった。校長はフランス人で、教師にはレバノン人、シリア人、エジプト人がいた。イエズス会は世界初の「多国籍企業」と言えるような組織だった。
2.ミシュランにヘッドハントされる
1978年5月、当時24歳。2つ目のグランゼコールに進み、その後も経済学の博士課程に行こうと勉強中だった。タイヤメーカーのミシュランのヘッドハンターから面接の要請があった。2週間後の面接で受諾した。
同期入社は100人いた。会社について講義を受ける研修で3か月間寝食を共にしたので、打ち解けた仲になった。驚いたのは研修とはいえ、実際に起きている問題の解決に当たらせる訓練が多かったことだ。生産工程をもっとすっきりできないか。原料のラテックスを効率的に管理するには?そんな重要な話を新入社員に問いかけるわけだ。
座学が終わると工場研修だった。原料の切り分けや運搬。力仕事が多く、3交代での深夜勤務もあった。だが、ゴムの製造工程のほか、労務や品質管理を学ぶにはいい機会だった。休憩時間には進んで現場の人と交流を持った。
3.コミットメント(公約・誓約)
私がびっくりしたのは、1998年に氏が日本に来て「日産リバイバルプラン:NRP」を発表した時だった。3年で20%コスト削減、売上高営業利益率4.5%、有利子負債2兆円を7千億円に減らす計画を掲げ、これが達成できない場合、社長(COO)を辞任すると言明した。この数字目標は希望ではなくコミットメント(公約・誓約)だと。当時日本の経営者で「計画達成に経営責任を負う」という人はいなかったからだ。それで氏の行動を注目していたが1年前倒しで見事に達成した。
4.月間行動スケジュール
氏は、2006年3月ルノー会長のルイ・シュバイツアー(2005年10月「履歴書」登場)の後任となり、日産と兼務のトップになる。それ以後の氏の行動スケジュールは、月の第1週をルノー、第3週を日産の経営にさき、その間の移動に合わせて米国、中国、ロシア、南米など第三国に出張するものだった。氏がルノーと日産とはアライアンス(提携)であって、M&A(合併か買収)の関係ではないと強調する。提携とは、2つの企業が独立を守りつつ、部品調達や技術開発では一つの企業のように力を合わせることだ。これが両社が18年かけて発明した独自の形態であると。
5.リーダーの必要条件
(1)結果を出せる人。トップはどんなに厳しい条件でも常に結果を出さなくてならない。
(2)リーダーは人々とつながる能力を身につけないといけない。固苦しい、冷たい印象を持たれては、部下たちの働く意欲も損なわれる。
(3)新しいことを常に学ぶ姿勢だ。無公害車や自動運転、IoT技術の進歩が著しい。新しい技術や動きに精通し、行動しなければならない。と説く。
グローバル化の現在、このようなダイバシティ(多様性)を持つ人材を企業は求めているのだと実感したのだった。
カルロス・ゴーン Carlos Ghosn | |
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厚生労働省より公表された肖像 | |
生誕 | 1954年3月9日(70歳) ブラジル ポルト・ヴェーリョ |
住居 | レバノン |
国籍 | ブラジル フランス レバノン |
別名 | コストキラー、ミスター調整 |
民族 | レバノン人 |
出身校 | コレージュ・ドゥ・ノートルダム・ドゥ・ジャンブール エコール・ポリテクニーク(1974年卒業) パリ国立高等鉱業学校(1978年卒業) |
著名な実績 | 日産自動車会長 三菱自動車工業会長 ルノー取締役会長兼CEO (PDG) |
活動拠点 | レバノン |
給料 | 10億9800万円(2016年度)[1] (過少申告の疑いで捜査中) |
宗教 | キリスト教(マロン派) |
罪名 | 金融商品取引法違反 特別背任罪 |
刑罰 | 未定 |
犯罪者現況 | 国際手配中 |
配偶者 | リタ(1984年 - 2010年) キャロル・ナハス(2016年 - ) |
子供 | キャロライン・ゴーン 他2人 |
親 | ジョルジ・ゴーン(父) |
親戚 | ビシャラ・ゴーン(祖父) |
受賞 | ベスト・ファーザー イエローリボン賞(経済部門、2001年) |
栄誉 | レジョンドヌール勲章(シュヴァリエ) 藍綬褒章 大英帝国勲章(ナイト・コマンダー) 日本自動車殿堂殿堂者 |
カルロス・ゴーン・ビシャラ(フランス語: Carlos Ghosn Bichara[2]、アラビア語: كارلوس غصن بشارة、1954年(昭和29年)3月9日 - )はブラジル出身の実業家。
2004年に藍綬褒章を受章[3][4]。ルノー、日産自動車、三菱自動車工業の株式の相互保有を含む戦略的パートナーシップを統括する「ルノー・日産・三菱アライアンス」の社長兼最高経営責任者(CEO)を務めていた。金融商品取引法違反および特別背任の疑いで起訴されたのち、保釈中に国外へ逃亡し、現在公判停止中。