ウイリアム・J・ぺリー ういりあむ ぺりー

行政・司法

掲載時肩書元米国国防長官
掲載期間2010/12/01〜2010/12/31
出身地アメリカ合衆国
生年月日1927/10/11
掲載回数30 回
執筆時年齢83 歳
最終学歴
米国ペンシルベニア大学
学歴その他スタンフォード大学
入社防衛企業
配偶者高校同級生
主な仕事ミサイル防御、CIA協力、国防次官、ステルス、核頭脳流出防止、国防長官、4賢人・核防止提言、
恩師・恩人ポーヤ教授
人脈ケネディ、カーター、レーガン、クリントンの政権に関与、橋本龍太郎、池田行彦
備考幕末のペリー提督 と縁戚
論評

氏は驚いたことに幕末黒船で日本に来航したロバート・ペリー総督の親戚筋に当たる人物でした。終戦後は日本に来て、主に沖縄で詳細な地図作りに従事したとあり、後に国防長官として普天間基地の返還を決断する際、このときの生活経験が役立ったと書かれている。日本人が書く「私の履歴書」と違い、外国人は記述が具体的で興味深いものが多かった。

1.沖縄駐留時代
日本軍が敗戦を受け入れてから2年後の1947年、私はかっての敵国・日本の首都・東京に足を踏み入れた。そこで目にした光景は今も忘れられない。茫漠とした大地には瓦礫の山が幾重にも重なっていた。無残にも打ちひしがれた東京の姿を目に焼き付けた私は来日から2か月後、米海軍の上陸船に乗り込み、海路で沖縄に渡った。那覇港にたどりつき、そこで目にしたものはもっとひどかった。
 そこには一切の建物がなく、ただ間っ平らな大地が荒涼と広がっていた。沖縄の人たちは決して大げさではなく、瓦礫の山の中で暮らしていた。「戦争とはなんと残酷なものなのだろう。そして人々に何という苦難を強いるのだろう・・・」。まだ18歳だった私は心の中で何度もそう自分に問いかけた。この時、私の脳裏に焼き付いた「戦争」のイメージは以来、私の中から消えたことはない。
 沖縄で私が受けた命令は、米陸軍の第1541工学調査大隊に所属し、沖縄本島の正確な地図を作製することだった。後に国防長官として普天間基地の返還を決断する際、この時の経験が大きな原動力になったことは確かである。

2.米国・国防の予知能力の凄さ
スタンフォード大学の数学の博士課程を修了し、防衛産業に就職した。そこで「自国航空機を追跡する敵レーダーに対して、妨害電波を流し機能不全に陥らせるシステム」と「電子的な技術を使って敵側の機密情報を探るシステム」を完成させた。この後者のシステムはその後、宇宙静止衛星を利用するシステムに発展させ、ソ連や他国の大陸弾道ミサイルの実験を完全監視し、その実力、精度など敵国武器の実態を把握していた。また、1991年の湾岸戦争で圧倒的な敵地侵入能力を発揮したステルス爆撃機も私の提案・説得により、ロッキード社に開発を促進させたものだ。そして、1994年北朝鮮が約8000本の使用済み核燃料を抽出するのを衛星で発見すると、分析し、これはプルトニューム核爆弾を6~8個保有すると結論づけて行動した、と書いている。こういう米国の監視能力、分析能力、外交能力は、私(吉田)にとって未知の世界であり感嘆するものでした。

3.意見論文「核兵器のない世界を」オバマ大統領に
オバマ大統領が2009年プラハで「核のない世界」を外交演説し、その年のノーベル平和賞を受賞することになるきっかけの意見論文「核兵器のない世界を」を、私とシュルツ元国務長官、キッシンジャー元国務長官、サム・ナン元上院議員の4人で発表していた。この4人の提言は、第一段階として12年までに米ロ両国が新たな核軍縮条約を締結する、第二段階は25年までに米ロ両国が保有核弾頭数を500発(現在比で約95%減)まで圧縮する。そして第三段階で、世界の新たな政治環境・システムに応じて追加的な核削減努力を行い、核全廃に近づけていくというもので、米国は現在この実現を目指し行動している。

4.普天間返還合意(国防長官時代)
「現在の国際情勢の中で沖縄の人々の強い要望に可能な限りこたえるものだ」。1996年4月12日夜、橋本龍太郎首相はウォルター・モンデール駐日大使と首相官邸で共同記者会見をした際、こう胸を張った。この時、二人は沖縄米軍・普天間基地を5~7年以内に日本に全面返還することで正式に合意したのである。
 沖縄米軍基地の整理・統合・縮小を巡る日米交渉において、この普天間問題は象徴的な存在だった。米国の国防長官として、普天間基地が抱える問題の難しさは私も十分、理解していたつもりだ。若い時、沖縄に1年半ほど滞在した経験から、沖縄県民の米軍に対する複雑な心境も多少は理解できた。
橋本・モンデール会見から3日後、私は池田行彦外相らと共に日米双方の外務・防衛担当閣僚で構成する日米安全保障協議委員会(2プラス2)を開催。普天間の全面返還を含む、沖縄米軍基地の整理・統合・縮小に関する日米特別行動委員会(SACO)の中間報告を了承、発表した。これにより、普天間問題に一定の決着を付けた私はようやく肩の荷を下ろせた。
ここで強調しておきたいが、普天間返還をクリントン大統領に勧めるに際して、私は最後まで代替地は沖縄県内であるべきだと思っていた。その理由は何と言っても沖縄が備えている地理的な特性である。仮に朝鮮半島で有事が発生した場合、北朝鮮から最も近接した場所の一つは沖縄だ。だから、この問題について、私が日本政府と協議する際も「撤退」といった覚えは一度もない。あくまでも沖縄県内の他の場所に「移設」することを条件として、「返還」を決めたのだ。

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