アラン・グリーンスパン アラン グリーンスパン

行政・司法

掲載時肩書前FRB議長
掲載期間2008/01/01〜2008/01/31
出身地アメリカ合衆国
生年月日1926/03/06
掲載回数30 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
米国コロンビア大学
学歴その他new york大学
入社経済調 査機関
配偶者初婚失敗、再婚・記者ア ンドレア
主な仕事楽団入り、ミクロ→マクロ、独立、CEA委員長、FRB議長、ブラック・マンディ、9.11テロ、
恩師・恩人アイン・ランド女史、アーサー・バーンズ博士
人脈キッシンジャー(2上)、ニクソン(誉め・後、嫌う)、フォード、レーガン、クリントン、ルービン、サマーズ、オニール、宮澤首相
備考クラリネット、サックス、フルート演奏
論評

1926年3月6日 – )はアメリカ合衆国生まれ。コンサルタントで、マネタリスト経済学者。1962年から1974年まで国際投信ドレフュスファンド(Dreyfus Fund)の取締役を、1974年から1977年までジェラルド・フォード大統領の経済諮問委員会(CEA)議長を、1980年代にはアルコア社やABCの取締役を、1987年から2006年までは第13代連邦準備制度理事会(FRB)議長を務めた。

1.ブラックマンデー時の対応
米連邦準備制度理事会(FRB)議長に就任して2か月、いきなり手腕を試された。1987年10月19日、月曜日午後、ダラス空港に降り立った私は、出迎えの幹部にニューヨーク株式相場の終値を聞いた。その日は朝から株価は急落し508ドル、率にして22.5%の市場最悪の株価暴落だった。私はホテルに直行し、電話にかかりきりになった。ワシントンではジョンソン副議長が危機管理本部を設置。コリガン・ニューヨーク連銀総裁はウォール街の金融機関やニューヨーク証券取引所の首脳と連絡を取り合っていた。
 これだけの株価暴落が起きれば、金融機能が全面マヒする恐れがある。それを防ぐために何をなすべきか。どんなメッセージを出すべきか。電話会議で深夜まで議論を詰めていった。翌朝、レーガン大統領の首席補佐官ハワード・ベーカーから電話があり、彼が迎えによこした軍のジェット機に乗り、ワシントンに向かった。政府とも緊急の協議に入った。レーガン大統領は「経済指標は堅調だ」と語ったが、これでは1929年の株価大暴落時のフーバー大統領の発言に似すぎる。そう思い、ジェームズ・ベーカー財務長官と一緒に「議会と協力して財政赤字を削減するよう提案すべきだ」と大統領に訴えた。その後、市場の危機は1週間以上続くが、その後は落ち着きを取り戻していった。

2.FRB議長就任
ベーカー財務長官はフォード政権時代からの友人だ。私が大統領の経済諮問委員会(CEA)議長をしていた時、彼は商務次官を務めている。彼の呼び出しでワシントンのベーカー邸に行くと、ビックリしたことに、もう一人のベーカーがいた。大統領補佐官のハワード・ベーカーである。FRB議長の就任要請だった。
 87年8月、FRB議長になった私の生活は大きく変わった。警備担当の人が入れ替わりで運転手として毎朝FRBまで連れて行ってくれる。エレベーターの中ですら一人ではない。警備の人たちはプライバシーには気を遣ってくれたが、いつも人が回りにいるという圧迫感は続いた。

3.政権との確執
1987年10月の株価大暴落は結局、経済にはほとんど悪影響を及ぼさなかった。むしろインフレ圧力が徐々に高まり、翌年3月には政策金利の誘導目標を引き上げた。そのころ政治は選挙の季節を迎えていた。レーガン大統領の後釜を狙うブッシュ副大統領陣営は金融政策の動向に神経をとがらせていた。
 こんなときベーカー財務長官は、長官を辞めてブッシュ候補の選挙責任者になっており、政権が発足した際、ブレディ財務長官を紹介してくれた。ブレディはある時、「財政赤字削減を目指す予算案が成立すれば、FRBは利下げすると約束して欲しい」と言ってきた。それはできないのでやんわりと断った。すると次回には「FRB議長として再任するから、利下げを約束して」とも言ってきた。利下げは続けることになるという見通しはあったが、もちろん約束はできない。その後は週1回の朝食会も止めてしまった。
 一般に大統領が金融政策を批判すれば、大統領自身に跳ね返ってくる。金融政策が政治に影響されていると市場に思われれば、インフレ・プレミアムが生じ、住宅融資金利も上昇してしまう。それは住宅着工減少などを通じて経済を悪化させ、大統領の支持を減らすからだ。クリントン大統領やブッシュ現大統領はそれをよく理解しており、問題はまったく生じなかった。

アラン・グリーンスパン
Alan Greenspan
アラン・グリーンスパン
生誕 (1926-03-06) 1926年3月6日(98歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
母校 ニューヨーク大学
コロンビア大学
情報 - IDEAS/RePEc
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アラン・グリーンスパンAlan Greenspan1926年3月6日 - )は、アメリカ合衆国コンサルタントで、マネタリスト経済学者ジェラルド・フォード大統領の大統領経済諮問委員会議長(1974-77)、第13代連邦準備制度理事会(FRB)議長を務めた(1987-2006年)。 ブラックマンデー、メキシコ通貨危機、アジア通貨危機アメリカ同時多発テロ事件後の経済危機を克服し、アメリカ史上最長の景気拡大をもたらしたが、2008年の世界金融危機はグリーンスパンの政策も一因だったと金融危機調査委員会が2011年に結論した[1]

  1. ^ グリーンスパン』 - コトバンク
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