鶴岡一人 つるおか かずと

スポーツ

掲載時肩書元南海ホークス監督
掲載期間1984/04/01〜1984/04/30
出身地広島県
生年月日1916/07/27
掲載回数30 回
執筆時年齢68 歳
最終学歴
法政大学
学歴その他広島商
入社南海
配偶者同郷出身
主な仕事甲子園優勝(米国)、入隊知覧、29歳監督(23年間)、二軍創設、スカウト(別所・広岡・長島裏)、少年野球連盟
恩師・恩人
人脈浜崎真二、藤村富美男、若林忠治、大沢 啓二、小西得郎、水原・三原監督
備考ドラフト前の札束合戦
論評

1916年7月27日 – 2000年3月7日、広島県呉市生まれ。プロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。初代「ミスターホークス」「ドン鶴岡」とも呼ばれた。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。
一軍監督として通算1773勝を挙げた実績から、プロ野球史上最多勝監督としても知られる。また、勝率.609は歴代監督の中でも唯一の6割超えである。藤村富美男とは呉市内の隣の小学校同学年で、当時からのライバルだった。

1.南海入団理由
この球団は昭和13年に日本野球連盟に加盟したばかりの弱小チーム(結成2年目)。軍隊入り必然だから「好きなことをやって死のう」と決心する。阪神と南海の内野陣を比べて、南海の方がスンナリと私を三塁に受け入れてくれそうが、決め手となる。入団してすぐ、主将に任命された。入団時(S14年)の支度金は5千円、月給は250円だった。当時のスター選手の支度金は大企業の部長クラスが住む家を1軒買える額、月給は大学での初任給の約3倍が相場だった。
 
2.野村克也の登用:
ハワイ合宿に代役で選ぶ。野村は入団後肩を痛めていた。ブルペン捕手のかたわら、打撃を生かすために一塁をやらせていた。ところが気候のいいハワイで練習しているうちに、すっかり肩が治った。守備も打撃も良くなったので、オープン戦では捕手に野村ばかりを使った。その年、彼は正捕手を獲得した。野村の努力はもちろん大きかったが、人間の運というものについても考えざるを得ない。高橋ユニオンズの誕生、捕手放出、ハワイの暖かさ、どれ一つ欠けても以後の野村の活躍はなかっただろう。

3.指導者の条件:敵3、味方7なら立派
指導者になると、部下全員が味方だと思ってはいけない。必ず敵がいる。敵がいないと指導者としての勉強をしなくなる。しかし、半分味方で半分敵というのでは、指導者としてゼロ。味方六、敵四で普通、七対三で立派な指導者といえるのではないか。思えば、私の23年間の監督生活は、5対5を6対4に、さらに7対3にするための努力の日々だった。

鶴岡 一人
南海ホークス選手兼任監督時代
(『アサヒグラフ』1948年4月21日号より)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県呉市
生年月日 (1916-07-27) 1916年7月27日
没年月日 (2000-03-07) 2000年3月7日(83歳没)
身長
体重
173 cm
68[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手二塁手一塁手外野手
プロ入り 1939年
初出場 1939年3月28日
最終出場 1952年8月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • グレートリング
    南海ホークス (1946 - 1968)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1965年
選出方法 競技者表彰

鶴岡 一人(つるおか かずと〈かずんど〉、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身[2][3][4][5][6][※ 1]の元プロ野球選手内野手外野手)・監督野球解説者位階従五位1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」[7]

愛称は「鶴岡親分」[8][9]「元祖親分」[10]「ツルさん」。「ドン鶴岡」とも呼ばれ、初代ミスターホークスの異名を取った。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で[6][9][11][12][13]、日本プロ野球史を代表する指導者の一人[14]

一軍監督として通算1773勝を挙げたプロ野球史上最多勝監督[9][11][15][16]。また、勝率.609は通算500勝以上を挙げている歴代監督の中でも唯一の6割超えである[9][17]。リーグ優勝回数11回は川上哲治と並ぶプロ野球の監督史上最多記録である。

  1. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「監督鶴岡第十四回」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  2. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「npb150th」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  3. ^ 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 鶴岡一人
  4. ^ 『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』、日本経済新聞社、2007年、13頁、同書著者略歴(鶴岡 一人 つるおか かずと |日本経済新聞出版社)(Internet Archive)。
  5. ^ 鶴岡一人記念球場(呉市二河野球場) – 呉市体育振興財団呉市と大之木建設株式会社とのネーミングライツ契約調印式について (PDF) 呉市役所報道発表資料 2019年4月12日
  6. ^ a b “呉市に「鶴岡一人記念球場」 呉二河球場の愛称に名将の名”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2019年4月26日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/04/26/kiji/20190426s00001000352000c.html 2022年6月19日閲覧。 “【ソフトバンク】柳田悠岐「なんでもいいんで優勝したい」大先輩・鶴岡一人氏出身地で自主トレ”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2023年1月19日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202301190001064.html 2023年7月13日閲覧。 上田雅昭 (2020年12月3日). “【心に残るホークス遺産】ホークスの原点「広島・呉」”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). https://www.sanspo.com/article/20201203-W52SGBZ2AZN73GXY6ZI3NI3YZU/ 2023年7月13日閲覧。  寺尾博和 (2021年1月23日). “監督とは「警官」であり「看護師」/鶴岡氏編15”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202101230000052.html 2023年7月13日閲覧。 
  7. ^ 日刊スポーツ連載《LEGEND伝説》栄枯盛衰〜消滅球団の光と影⑥(南海編①)2010年4月6日5面
  8. ^ 鶴岡一人- - コトバンク
  9. ^ a b c d 野球殿堂入りしたOB法政大学野球部
  10. ^ 村瀬秀信答えは過去にあり。~ニッポンの名将特集~プロ野球〔11人のこぼれ話〕 現代にも通じるリーダー列伝 勝手にベストテン第1位 鶴岡一人」『Sports Graphic Number 782』2011年7月7日、文藝春秋、44-45頁。 
  11. ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「kotobank」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  12. ^ 【BBMホークス80周年ベースボールカード】ホークス80年の歴史を見よ!なつかしの名選手たちがカードでよみがえる - ベースボール・マガジン社
  13. ^ 時事ドットコム:プロ野球2世代写真展 「野球一族」いにしえ編 鶴岡一人、山本泰(親子)(Internet Archive)
  14. ^ 広尾晃 (2022-0-13). “野村克也、成功と失敗に彩られた84年間の軌跡 最も輝いたのは南海ホークスの時代だった”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2023年7月13日閲覧。page2page=3
  15. ^ 鶴岡一人 - NHK人物録
  16. ^ ソフトバンクが通算5500勝プロ野球で巨人に続く”. デイリースポーツ online (2022年6月1日). 2022年6月1日閲覧。
  17. ^ #名監督、3-8,105–121頁


引用エラー: 「※」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="※"/> タグが見つかりません

[ 前のページに戻る ]