掲載時肩書 | 日立製作所会長 |
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掲載期間 | 1981/01/01〜1981/01/31 |
出身地 | 東京都麻布 |
生年月日 | 1900/12/17 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 日立製作所 |
配偶者 | 妹友人 |
主な仕事 | 茨城工場長3か月スト,本社部長、GEと提携、東京モノレール、JRみどりの窓口(座席予約)、海洋センター、核物質管理センター |
恩師・恩人 | 小平浪平(日立創業社長) |
人脈 | 沖中重雄(中学同窓)島秀雄(一高)西清、倉田主税(前社長)、木川田一隆、犬丸一郎、山下勇 |
備考 | クリスチャン、信条「真実一路」 |
1900年(明治33年)12月17日 – 1986年(昭和61年)10月2日)は東京生まれ。実業家、第3代日立製作所社長・会長、電気学会会長。語録:「メーカーとして最も大切なことは、製品の性能、品質が良く、事故がないことと、新しい技術を開発して次代の要求に答えていくことである。」「企業の最高の意思決定は社長に一元化しないと、ゴタゴタが起こったり、決定が不明確になる。また、社長が先輩に遠慮して経営をやるようでは、はっきりした経営体制はとれない」など。
1.日立工場が空襲で甚大被害〈1945年〉
昭和20年6月10日、この日出勤していた人は1060人で平日の十分の一だった。朝からたびたび警戒警報、空襲警報が発令されたが、このようなことはよくあるので避難することもなく緊張もなかった。ところが、8時50分、屋上の監視塔から突然「敵機が見える」との伝達があり、本部は直ちに全員退避命令を出し、サイレンを鳴らした。私は2階の本部から階下に降りて防空壕に入ろうとしたが、間に合わなかった。
異様な落下音と爆弾の炸裂音が入り混じり、本館裏の通路に伏せたもののやられたかと半ば観念した。ダーンという直撃音やシャシャシャーという空気をこするような音、ドドッという音などを無我夢中で聞いているよりほかなすすべもなかった。空襲が一段落したので、屋外に出てみると、30分前まで整然と立ち並んでいた工場群の威容は見るも無残な姿に変り果て、黒煙がもうもうと立ち込め、鉄骨の建物は崩れ落ち火を噴いている工場もある。
警報を聞いて駆け付けた者はほとんど爆撃で飛び散り、出勤していた従業員の多くは防空壕に逃げたが、これも入り口が爆弾で崩れたので、生き埋めになった者も少なくなかった。日立工場関係の死者は、戦後の調査によると634人にものぼった。犠牲者の慰霊祭は6月20日に行われ、小平浪平社長も参列され、「工場や設備は爆弾で潰すことはできても、日立精神は潰せない。日本国がある限りは続くよ」といわれた。これが一同の奮起の原動力となった。
2.特許の公開(日本初)
私は昭和36年(1961)に倉田主税社長から、社長を引き継いだ。日立製作所は伝統的に技術を大切にすることで有名だが、私はメーカーとして最も大切なことは製品の性能、品質が良く、事故がないことと、新しい技術を開発して時代の要求に応えていくことだと思っている。
40年代の技術は原子力、半導体、コンピュータ等の新分野が次々に開花、百花繚乱の観を呈し、これに応ずるのも容易ではなかったが、努力の結果、海外の先進技術にも追いついてきた。そこで私は、46年に日立の持つ特許の公開に踏み切った。外国では特許を交互に交換するクロスライセンスが一般の慣行だが、日本では各企業とも門戸を閉ざしており、特許を逃れるためにムダな努力をしていた。私はこれではまずいとわが国では初めての特許公開に踏み切ったわけだが、最初は社内でも反対が少なくなかったようだ。しかしこれにより日立の技術輸出は増え、輸入は減って、その比率は45年(1970)の6%から53年〈1978〉には59%にもなった。大成功であり私は54年発明協会から表彰を受けた。
3.系列会社への経営方針
日立製作所の系列会社が本格的にでき始めたのは戦後のことで、昭和31年(1956)に業種が異なる電線と金属を分離したのが最初である。その後、高度成長で拡大して現在の主なる系列企業は113になっている。
この全体が日立グループを形成しているが、日立の系列会社に対する経営の考え方は、小平創業社長の経営思想に則し、第一に系列会社は親会社の制約を受けず、自主、独立的な経営を行う。第二に日立グループは一つの考え方に立って親会社、系列会社が相互の関係を密にして互いに協力を図るというものである。この方針で系列会社に対しては、一つ一つ経営に口を出すことはせず自由にやってもらい、財務面でも直接支援はしない。
親会社からの協力としては、日立の持っている技術、生産技術、経営管理の方法やノウハウを利用する道を付けてやり、要請によりスタッフを派遣して指導する。また、各研究所や教育機関も開放して利用できるようにしている。