掲載時肩書 | オンワードHD名誉顧問 |
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掲載期間 | 2013/02/01〜2013/02/28 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1935/11/28 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 横浜市立大学 |
学歴その他 | |
入社 | 樫山 |
配偶者 | 馬場入婿(嫁:デザイナー) |
主な仕事 | 欧州視察、社長38歳、労組統一、打倒レナウン、ファッション協会、多角化(海洋レジャー等)、秀和舞台裏、映画出演 |
恩師・恩人 | 樫山純三、杉本一幸 |
人脈 | 岡田茂(三越・協力)、山中鏆(仇敵)、ゴルチェ、森英恵、五島昇、佐治敬三、伊藤雅俊、北野武、山本耀司、和田繁明 |
備考 | 兄:不二サッシ、映画5本出演(一人4役あり) |
昭和10年〈1935〉11月28日―)神奈川県生まれ。事業家。オンワード樫山元社長。昭和33年樫山(かしやま)(現・オンワード樫山)に入社。紳士服部長などをへて38歳で創業者の後をつぎ社長となる。既製服の品揃えの豊富さで業績をのばす。生活文化企業をめざし牧場・ゴルフ場経営、マリン事業にも進出。平成9年会長。同年日本アパレル産業協会理事長。兄:茂(不二サッシ社長)、弟:功(新明和工業の子会社の社長)、妻:馬場宏子(陸軍病院の院長の娘。文化服装学院卒、樫山で婦人服担当のデザイナー)。
1.派遣店員の不満
1958年(昭和33)春、私は既製服メーカーの樫山に入社した。入社当時から、すでに百貨店売り場には「委託取引」と「派遣店員」という2つの制度があった。いずれも樫山の創業者、樫山純三氏が業界に先駆けて導入し、成長の原動力にしてきたビジネスモデルである。
「派遣店員」とは、かき入れ時の土日などに当社の社員を販売員として派遣する制度。客から見れば百貨店員と変わらない。人件費はかかるが、代わりに貴重な売れ筋情報を掴むことができる。これは樫山の成長を支える生命線だった。だが、私にはどうしても「百貨店の怠慢」のように思えて仕方がなかった。それでいて、百貨店の社員は「吊るし屋に商売をさせてやっているんだ」と見下す態度で接してくるのだ。
リスクを負っているのはアパレルメーカー側である。我々がやらなければ百貨店の商売は成り立たない。なのに、商売では卑屈な低姿勢を強いられる。この“不条理“は私の心に根深く巣くうテーマになった。
2.「マフィアと悪代官」論争
1974年4月、私は38歳の若さで社長に就任し、樫山純三氏は会長に退いた。売れ残りを返品として引き取る「委託販売」を巡って、私が尊敬する百貨店の重鎮と激論を戦わせたことがある。84年に神奈川県大磯で開いた流通セミナーでのことだ。相手は伊勢丹専務や松屋、東武百貨店の社長などを歴任し、「ミスター百貨店」と呼ばれた山中鏆氏である。
山中氏は仕入れの心構えを説く演説でこう指摘した。「アパレルなんてマフィアみたいなものだ。委託取引を通じて百貨店の売り場をジワジワと占領してしまう」と。私は黙っていられず、山中氏に即座にこう反論した。「アパレルをマフィアと呼ぶなら、百貨店は悪代官でしょう。アクセク働くアパレルから利益を搾り取っている」。よく聞けば山中氏は委託取引の弊害を懸念していたようだ。
これが後に流通業界で語り草になる「アパレル・マフィア=百貨店・悪代官」論争である。私は新人時代から感じていた「不条理」をぶつけたに過ぎない。私と山中氏との認識に大きな違いはなかった。同じ論点を逆の立場から言い合っただけだ。大先輩の山中氏は率直に物を言う親分肌。私と似たタイプで、この一件以来、すっかり打ち解けて親友になってしまった。
3.ジャンポール・ゴルチェを育てる
パリで活躍する大物デザイナー、ゴルチェを、実は無名時代に才能を見出し、一から育て上げたのが樫山だと知ったら、驚く人がいるかもしれない。日本のアパレルメーカーでは前例のない快挙といえる。既に有名になった海外デザイナーと契約し、日本での生産販売権を得るケースは多い。だがゴルチェの場合、財政的な支援を最初から樫山が請け負った。樫山が生みの親であり、育ての親なのだ。
出会いは1977年3月。樫山がパリで経営するブティック「バス・ストップ」にジーンズ姿の若者が現れた。それが無名時代のデザイナー、ゴルチェだった。当時、「バス・ストップ」では製造卸を手掛けるために、専属デザイナーを募集していた。その面接試験を受けに来たのだった。
弱冠24歳。青い瞳にまだ少年らしさは残るが、作風には独自性があり、感性がきらめいている。まずパリに彼のアトリエを開き、立体裁断や型紙作りを担当するスタッフを3人採用した。素材の仕入れや展示会、ショーの経費もすべて負担した。78年秋にはパリのホテルで華々しく最初のショーを開いた。反響は悪くないのだが、「売れる商品」としてバイヤーにしばらく認知されなかった。
しかし幸い、人気に火がつくのに時間はかからなかった。下着ルックなどの新鮮な作品が評判になり、80年には仏業界紙の人気投票でトップ10に入り、すぐに首位を独占する超売れっ子に成長した。81年から樫山とライセンス契約し、日本での販売を開始した。
4.北野武監督映画に出演
私と北野監督とは東京・六本木のふぐ料理店で知り合った“ふぐ仲間”である。互いに常連。何とはなしに言葉を交わすようになり、いつしか映画談議で盛り上がる間柄になった。私も大学時代に映画研究会に属していたくらいの映画好きだが、相手は「世界のキタノ」である。
「馬場さん。いつも偉そうな口を叩くけどさ。今度オイラの映画に出てみたら?」。悪い冗談だと受け流していた。だが、しばらくすると、店のオーナーの娘さんが慌てた様子で連絡してきた。「大変です。馬場さん。この間のタケシさんの言葉。どうやら本気みたいなんですよ。しかも一人4役・・・」と。
「なに?」。私は驚いた。素人にそんな芸当が出来るわけない。ところが届いた台本を読むと、確かに一人4役で出演するようになっている。タイトルは「TAKESHI‘S」〈2005年公開〉。大スターのビートたけしと、それにそっくりな売れない役者の北野武が出合い、北野がたけしの映画の世界に迷い込むという筋書き。私は金持ちのオヤジ、ジャン荘の店主、銀行の支店長、機動隊長の4役。半信半疑のまま衣装合わせに出かけることになった。場所は衣装を担当するファッションデザイナーの山本耀司氏のアトリエだった。
この後、「彼女が水着にきがえたら」(89年公開)、「写楽」〈95年公開〉、「阿弥陀堂だより」〈02年公開〉、「アキレスと亀」〈08年公開〉にも出た。私も相当な出たがり屋である。チャレンジ精神だけは旺盛なのだ。