飯田善国 いいだ よしくに

芸術

掲載時肩書彫刻家
掲載期間1997/07/01〜1997/07/31
出身地栃木県
生年月日1923/07/10
掲載回数30 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
東京藝術大学
学歴その他慶應文
入社
配偶者ウィーン娘
主な仕事結核、戦争九死、(伊国、ohstory6年、Iceland、独国)計11年、絵画、銅版画、彫刻、役者、野外彫刻
恩師梅原龍三郎、中山素平
人脈折口信夫、池田弥三郎、岡本太郎、 野上弥生子、池田満寿夫、川村勝巳、池田満寿夫、
備考エッチング
論評

1923年7月10日 – 2006年4月19日)は栃木生まれ。日本の彫刻家、現代美術家、詩人。画家を志して東京藝術大学に入学、梅原龍三郎らの教えを受け1953年に卒業した。製作者懇談会と呼ばれる美術論議のグループに所属し、芸術論の交換をしながら、戦争体験でばらばらになった世界観や自己への懐疑を再構築すべく、表現主義的な絵画で彼なりのリアリズムを築き上げようとした。1956年からのローマ留学の間、彫刻のコースで学び、より外に開かれた、実感に近いものを求めて彫刻制作に転じた。1960年代後半に日本に帰国し、木やブロンズ、ステンレス、さらに彩色を施したロープなどを組み合わせ抽象造形を展開し、当時の日本を代表した野外彫刻展で相次ぎ受賞するなど高く評価された。

1.梅原龍三郎先生
慶応の文学部教授・折口信夫先生や助手の池田弥三郎先生は、「もうしばらく辛抱して御覧なさい。面白くなりますから」と引き留めてくださった。しかし、梅原先生に絵画を教わりたい意志は固まっていたので、昭和23年(1948)の東京藝術大学に入学し、梅原教室の一員となった。
 梅原さんは、芸大で教えることに、あまり興味がなさそうに見えた。安井曽太郎先生が一人一人の作品をじっくり眺め、一筆一筆手をとるように教えたのと丁度反対の教え方だった。教室に入ってくると、ひとわたり学生の作品を見て回るのだが、気に入った作品がないと、5分もたたないうちに、すっと出て行ってしまわれる。久保守助教授がいつも神妙に側につき従っていた。幸いなことに、梅原さんは私の習作の前には必ず立ちどまり、じっと画面を眺めてから、「ここのところの色調、もうちょっと強くしたらどうかな・・」などと意見を述べてくれるのだった。一番面白く、得難い経験は、梅原さんに信用され、夏の留守宅の留守番を頼まれたことだ。当時の私は、田舎からの送金はなくなり、奨学金ももらえないので、全くの文無し状態だった。

2.彫刻との出会い
私は画家としての修業をするためにイタリアへ出かけたはずだった。彫刻家になろうと思ってヨーロッパへ行ったわけではなかった。油絵の勉強を2,3年くらいで日本に帰って来る腹づもりだった。
 ところがある日、ポポロ広場に近いボルゲーゼ美術館へ行って、アントニオ・カノーバの大理石像「プシケ」を見て、石の肌の美しさに目覚めた。カノーバは18世紀後半から19世紀初めにかけて活躍したイタリアの彫刻家だ。
 国立美術館にあるヘレニズム中期の彫刻、「湯浴みするビーナス」(ローマ時代の模写)を前にした時は、その乳房とお尻に触ってみたいという衝動に駆られた。完全な乳房の美しさを、言葉で表現するのは難しい。係員がわき見しているすきに、何秒間か手のひらでそっと触れてみた。その瞬間、私は恍惚とし、彫刻家の本能を強くくすぐられたのだった。ヨーロッパの彫刻の本物の力に圧倒され、心は彫刻に傾いていた。

3.銅版画に興味
ローマに来てかなり年月がたったが、彫刻家としての才能にもまだ確信が持てなかったが、これまでにやったことのない銅版画への興味がわいてきた。そこで今まで書き溜めてきたクロッキー(スケッチ)の中に、腐食銅版に使えそうなものがいくつかあったので、版画教育実験学校という専門学校に入った。
 腐食銅版(エッチング)というのは、磨かれた銅板の表面に薄い樹脂の膜を作り、それを煤(すす)でまぶして黒くし、その上に鉄筆で絵を彫っていく技法だ。その後、硝酸などの液に漬け、腐食の度合いを目で測りながら頃合いを見て引き上げる。鉄筆でひっかいた部分は腐食して溝になっており、そこにインキを流し込んでプレス機にかけると、紙の上に描線が刻印されて出現する・・。私はそれが面白くて、しばらく銅版画に熱中した。

飯田 善国(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 2006年4月19日)は、日本彫刻家現代美術家、詩人

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