掲載時肩書 | 日本証券業協会会長 |
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掲載期間 | 2020/01/01〜2020/01/31 |
出身地 | 岡山県 |
生年月日 | 1947/04/17 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | |
入社 | 大和証券 |
配偶者 | 社内結婚 |
主な仕事 | 営業、千野会長秘書、39歳留学、法人営業、住銀と合弁交渉、合弁解消、 |
恩師・恩人 | 越田弘志 |
人脈 | 竹内まりや、原良也、日々野隆司、奥正之 |
備考 | 軽音楽バンド |
氏(72歳)は、この「履歴書」に登場した大和証券出身の福田千里(65歳、1961年9月)に次いで2人目である。語り口は歯切れがよく、証券業界の悪習なども正直に語ってくれていたので好感が持てた。
1.悪習:
例えば、「1974年当時はノルマ営業が当たり前、本社株式部から指示される銘柄、株数について翌日の朝までに個人客から注文を決めないと家に帰れない。10万株の買いが決まらないと夕方から夜にかけて、顧客に電話をかけまくった。その時のセールストークは、「これからは株式投資ですよ」「絶対です」「大丈夫です」など、今なら一発アウトの言葉だった。また、法人事業部時代の1986年頃には、株価上昇を背景に日本企業の間では「財テク」が大ブームになっていた。企業は稼いだカネを設備投資には使わず、すべて運用に回す企業も相次いだ。その時の企業財務担当者は、証券会社にとって極めて大事な顧客になる。値上がりが確実と思われる新規発行の転換社債をこっそり割り当て、上場初日に売却させて利益を確定させるなど、どこの証券会社でもやっていた。財務担当役員は3年やれば家が建つ、などと言われたものだ」とある。世間で証券会社に対する悪評をTOPの鈴木氏が認めたことになるので、「やっぱりそうなのか」と得心したものでした。
2.山一証券との差:
1997年、総会屋グループに利益供与した商法違反事件で、大手証券会社4社は代表権を持つ役員が総退陣した。バブル崩壊後、含み損のある有価証券を簿外で抱え、相場回復を待っていたが、命運が尽きた。山一證券は自主廃業となった。大和も91年に「飛ばし」が表面化し、500億円ほどの損失を計上した。あの時、山一と同じように簿外で隠し持つことをしておれば、同じ運命をたどったかもしれないと述懐する。
3.住銀との合弁と解消:
97年~98年は証券会社だけでなく、銀行、生命保険会社も次々に経営危機に陥る試練の日々だった。大和は、個人営業は強いが法人部門がやや弱かった。以前から懇意にしていた住友銀行と組むことに期待したのは法人顧客の拡大だった。この合弁により株式を新規に公開する案件は、住友のネットワークでずいぶん増えた。それでも銀行と証券の考え方の違いはあり、驚いたり、腹を立てたり日々が続いたようだ。しかし、合弁後の98年にこれを解消した。理由は、銀行が主導権を持てばもっと利益が出る考えと、証券業務はこちらが経験も上という自負が、簡単には埋まらなかったからだ。そのきっかけは、住友と三井とが合併した三井住友銀行が、同業他社の日興証券を買収し、SMBC日興証券グループを誕生させたことにあった。
4.二頭政治の弊害?:
鈴木氏は社長就任した直後に全国の支店を精力的に回り、個人営業部門の士気を挙げ全社員の活性化に成功した。しかし、会長になっても支店によく足を運んだと書く。理由は、「仕事ぶりをいつも見ているぞ、という意識を部下に持たせたい」からだと・・。しかし、これは国際的対外交渉とは違い、社長の仕事では・・と私(吉田))は思った。