鈴木茂三郎 すずき もさぶろう

政治

掲載時肩書社会党委員長
掲載期間1956/03/01〜1956/03/06
出身地愛知県
生年月日1893/02/07
掲載回数6 回
執筆時年齢63 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他
入社東洋通信社
配偶者記載なし
主な仕事芝居好き、父母の手紙、通信簿、苦学、報知新聞、 毎日新聞(記者12年)、社会主義政党
恩師・恩人
人脈小汀利得、平賀敏、郷誠之助、嶋中雄三、浅沼稲次郎、堺利彦、加藤勘十、菊池寛
備考父:車夫
論評

1893年 2月7日 – 1970年 5月7日)は、日本の政治家、第2代日本社会党委員長。ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた。大学卒業後は、ジャーナリストとなり、『報知新聞』・『大正日日新聞』・『東京日日新聞』(現・『毎日新聞』)などの記者となり、経済ジャーナリストとして知られた。1945年、日本の敗戦直後、日本社会党が結成されると、鈴木は左派の中心人物としてそれに加わった。1946年の総選挙で衆議院議員に初当選(以後、9回当選)し、1947年に政策審議会長、1949年に書記長、1951年に委員長と順調に党内での地位を固めていった。昭和31年3月1日からの「私の履歴書」では、一番最初の登場人物で、6回の連載であった。

1.父母からの手紙(横浜の洗たく屋に奉公していたとき)
(1)車夫の父から(原文のまま:一部のみ)
いろいろおまえに心配をかけてまことに気毒におもいます。私の考えちがいで、おもいのほかの貧乏になり、おまえひとりになんぎをさせるはじつに私がわるかったです。
(2)母からの手紙の一部(原文のまま:母は眼病を患い、平仮名で金釘流のたどたどしいもの)
さむさきびしくそうらゑども、おまえさまにわまめでしごとおなさるはなしおきいて、うれしくござんす。わたくしのうちも2ねんもふしあわせがあり、おまえのからど(体)おあてに、まかなひのかねやらかり(金を借り)おまへもよだるい(詰まらない)ことであろうけれど、やゑもんどの(父のこと)かぜをひき、しゃくがてつだひ、むなさきがいたみ・・・。
こうして私たち4人を育ててくれた父と母の恩を思うと、私は泣いても泣き足りない思いでいっぱいである。

2.苦学時代(14歳2か月から早稲田大学政経を卒業した23歳までの8年4か月)
小学校を終えると上級の学校に苦学しながら入学させてくれるよう両親に頼んだが許されなかった。苦学の歴史が始まった。新聞配達、牛乳配達、夜店、土方、車引き、書生、原稿書生など何でもやった。
 土方は水道橋橋畔に人夫の周旋場があり、毎日未明に出かけて行ったが、アブれることが多かった。つるはしをふるう土方は半日と続かなかったので、大抵はお役所の倉庫の書類運びをやった。人力車は鉄輪からゴム輪への転換期だったが、私はガラガラと騒音をたてる鉄輪の古びた車を親方から借りて、夜の池之端に毎晩客待ちをした。他に麻糸つなぎやウルシ絵の手内職もやった。質屋通いは顔が利く通だ。

3.社会主義の学問的研究は晩学
私は社会主義運動に二児の父として28歳ごろ一身を投じたので、したがって学理的な研究は晩学であった。記者時代の資本主義の学理と実証についての知識が役立ったにしても、また私は大内兵衛、山川均氏らのような先輩や、有沢広巳、向坂逸郎氏のような親友について、私の足らないところの教えを受けて過ちの少ないように心がけてきた。たいていのものは資本論は在学中に二度、三度読んでいるが、私は運動の忙しい中で学んだ。特に精力的に学んだものは戦前は初期のヴァルガのもの、これは著作を一枚一枚引き裂いて読んだ。
戦後、といってもむしろ保釈中、カウツキ―の著作について多く学んだ。私が主宰した戦前の日本経済研究所、戦後の社会主義政治経済研究所も、私の知識の血と肉となった。

鈴木 茂三郎
すずき もさぶろう
Suzuki Mosaburo.JPG
1953年
生年月日 1893年2月7日
出生地 愛知県蒲郡市
没年月日 (1970-05-07) 1970年5月7日(77歳没)
死没地 東京都
出身校 早稲田大学
前職 報知新聞記者
東京日日新聞記者
所属政党無産大衆党→)
日本大衆党→)
(東京無産党→)
(労農無産協議会→)
日本無産党→)
(無所属→)
日本社会党→)
社会党左派→)
日本社会党

選挙区 東京都第2区東京都第3区
当選回数 9回
在任期間 1946年4月11日 - 1966年12月27日

在任期間 1951年1月21日 - 1960年3月23日
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鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1970年5月7日)は、日本の政治家、第2代日本社会党委員長ジャーナリストエッセイストとしても知られた。

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