掲載時肩書 | 日本学士院会員 |
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掲載期間 | 1961/09/28〜1961/10/18 |
出身地 | 石川県 |
生年月日 | 1870/10/18 |
掲載回数 | 21 回 |
執筆時年齢 | 91 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 石川県専門学校 |
入社 | 小学校先生 |
配偶者 | 米国人 |
主な仕事 | 米国仏教講演、学習院教授、大谷大学、松ヶ岡文庫、禅・英語版20冊 |
恩師・恩人 | 釈宗演老師(大拙の名付け)、安宅弥吉(スポンサー) |
人脈 | 木村栄、西田幾多郎、藤岡作太郎、鎌倉円覚寺(洪川老師)、出光佐三、武藤山治、明石照男、原安三郎 |
備考 | 代々医者 |
1870年11月11日〈明治3年10月18日〉 – 1966年〈昭和41年〉7月12日)は石川県生まれ。仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広く知らしめた。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教学者」。名の「大拙」は居士号である。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。
1.円覚寺で今北洪川老師と釈宗演老師に会う
早稲田大学の前身である東京専門学校の専科に入った。かねて坐禅をしたいと思っていたので、三井の頭取・早川千吉郎さんの紹介で鎌倉円覚寺へ行くようになった。鎌倉へ行くには歩いて行ったな。夜8時ごろ東京の西片町を出ると、翌朝鎌倉へ着くんだ。
円覚寺で洪川老師に初めて相見、お目にかかった。老師は奥から出てこられ、そのとき何を言われたかよく覚えていないね。生国を問われた時、金沢ですとお答えしたら、北国の者は根気が良いと言われたことだけ、ただ覚えている。ここの舎利殿のところに禅堂があるが、これは洪川老師が建てられたんだ。
洪川老師が亡くなると宗演老師が継いだが、老師はなかなか偉い人であったな。老師に参禅した者は大変な数で、坊さんばかりでなく居士(出家せず仏道に志す人)が沢山いたわけだ。老師は禅の修行が済むと、慶應義塾に入って福澤先生の下で勉強し、それからセイロンまで留学して勉強修行された。私が米国に行くことになったのは、老師の推薦によったのだ。また、大拙と名前を付けてくれたのも老師なのだ。
2.松ヶ岡文庫
戦争中に計画し、やっと近頃(1961)になって整った松ヶ岡文庫も、一つには外国から来た人に禅を正しく理解してもらう機関にしたいと思っている。宗演老師ゆかりの寺、東慶寺(北鎌倉)で土地を提供してくれる話になり、松岡山東慶寺といってこの辺り一帯を松ヶ岡と呼んでいることから文庫の名前を松ヶ岡文庫とすることに決めた。家内のビアトリスが昭和14年(1939)に死に、その蔵書も相当あったので、わしが多年蒐集して来たいっさいの蔵書を合わせて寄付して文庫を作り、財団法人の組織にした。戦争中に書庫、閲覧室の創立にかかり、最初の設立資金を安宅弥吉が出してくれた。山の上を切り開いて建物を造ったのだから、戦争中は敵の飛行機の目標になる心配があると言って、軍人から文句を言われたこともあった。
いろいろ苦労はあったが、とにかく終戦時分にも小さい文庫であったが建物を造った。その後、この文庫は明石照男さんや原安三郎さんら財界の方々の援助によって閲覧室が拡充になり、昨年にはまた出光興産の特別の寄進で第二文庫が完成したわけだ。
3.お願い
わしも92歳になり、もう生きても知れているので、生きている間はこの文庫をわしが自由に使うのを許してもらいたものだ。面倒なことをいちいち言われ、次から次に本を見せてくれ、見せてくれと言って来られては勉強の邪魔になるのだ。生きている間にやらねばならん仕事がまだまだある。あと5年は生きていないと仕事が片付かない。それからあとのことは後のことだ。
これからもまた文庫に皆がわしを訪ねてくるだろう。訪ねて来てくれる人はたいてい皆、「お体をお大事に」と言ってくれるが、ほんとうに大事にしてくれるつもりなら、あんまり訪ねてくれない方がありがたいな。まだまだ、暇がないのだ。仕事を少しでも丈夫なうちにやっておきたい。できることなら、もう一度死ぬまでに米国、欧州を回って、向こうの人に言うべきことを言っておきたい気持ちでいる。周囲のものは止めるが、死ぬのはどこでも同じことではないか。
1870年11月11日 - 1966年7月12日 | |
1953年頃撮影 | |
名 | 貞太郎(ていたろう) |
号 | 大拙(だいせつ) |
生地 | 石川県金沢市下本田村(現・本多町3丁目) |
没地 | 東京築地聖路加病院 |
宗派 | 臨済宗 |
寺院 | 円覚寺の正伝庵 |
師 | 今北洪川、釈宗演 |
弟子 | 柳宗悦、松方三郎 |
著作 | 『大乗起信論』〔英訳〕(1900年) 『大乗仏教概論』〔英文〕(1908年) 『禅論文集1-3』〔英文〕(1927年、1933年、1934年) 『浄土系思想論』(1942年) 『禅思想史研究第一 盤珪禅』(1943年) 『日本的霊性』(1944年) 『臨済の基本思想』(1949年)[1] |
鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉[2][3][4]、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉[5] - 1966年〈昭和41年〉7月12日[5])は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。
名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した[6]。
生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[7]。