スポーツ
掲載時肩書 | 日本サッカー協会顧問 |
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掲載期間 | 2016/02/01〜2016/02/29 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1944/04/15 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 山城高 |
入社 | ヤンマー |
配偶者 | |
主な仕事 | 西ドイツ留学、ストライカー、Mexico五輪3位、ヤンマー監督・優勝、引退試合(ペレ)、G大阪、参議員、 |
恩師・恩人 | 村山康裕、森貞夫、D.クラマー |
人脈 | 長沼健監督、岡野俊一郎、宮本輝紀、八重樫茂生、杉山隆一、川渕三郎、ネルソン、ペレ、オベラート |
備考 | 75得点(83:澤、日本代表) |
サッカー界でこの「履歴書」に登場したのは、川淵三郎に次いで二人目である。氏はストライカーの日本代表として76試合で75得点を挙げ、男性の日本記録保持者であるが、澤穂希は83得点だから彼女には負けている。氏はFWで彼女はMFであるから、ゴールゲットはポストに近いポジションではなく、本人の意志が大事だと説いている。この「履歴書」にはロマンスや趣味、違った人脈の話もなく、柔道一直線ならぬサッカー一直線の感じだった。
外国選手との違い1:氏は、日本代表で一番多く得点した者として次のように苦言している。現在のサッカー選手が点が取れない理由は、鍛練不足、特にキックとヘディングの練習不足だ。「点が取れない」と嘆きながら、味方同士でぐるぐるパスを回す練習ばかりをしているからだ。これを見ていると「チームの全体練習の後になぜ、もっと個人練習を課さないのか不思議になる。本物の技術を身に付けようとしたら練習の「質」と同時に「量」の問題は避けて通れない」のだからと。そして、本田圭佑(ACミラン)ら欧州で活躍する選手たちが「日本に足りないのは個の力だ」とも言っている。
外国選手との違い2:1961年、氏が高校2年のとき、西ドイツから恩師のデットマール・クラマーさんが招聘されて厳しく指導してくれた。このクラマーさんの強烈な忠告は、「南米の選手はパスを受けて1で前を向ける。欧州の選手は1,2。なのに君は1,2,3もかかっている。どうやったら速く前を向けるか。それができるようになったら一級品になれるだろう」。へー、そうなのか。私(吉田)は南米選手、欧州選手と日本選手との違いがここで解った。
ゴール・ゲット:センタリングは相棒に「ゴールのクロスバーの高さで」と注文した。身長184cmのDFがジャンプを60cmしたのと同じ数字だった。この高さならまず競り負けなかったし、DFの背後を取った時は頭でクリアしようとしてもDFは届かず、胸で止めてシュートに持ち込めることが多かった。高低の感覚を養うのにバーに蹴って当てる練習をさせた。また、ゴールを3X3に9分割して数字が書かれたシューティングボードもフォーム固めと精度を磨くのに使った。そしてボードの一番下の列の真ん中が数字の8で「あの8の上の丸をインステップキックで射抜けと厳命して相棒を鍛えた。
氏は2025年8月10日、81歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2016年2月の71歳のときでした。1968年メキシコ五輪のサッカーで得点王に輝き銅メダル獲得の原動力となるなど、日本歴代屈指のストライカーとして知られた。絶対的なエースとして臨んだ68年メキシコ大会では初戦のナイジェリア戦でハットトリックを記録するなど得点を量産。地元メキシコとの3位決定戦で2得点し2-0の勝利に導くとともに、通算7得点で得点王に輝いた。
1.毎日100本のシュート練習
1963年春、早大第2商学部に入学した。大学では最初シュートが入らなかった。前を向かせてくれなくてシュートに持ち込むこと自体が難しくなった。修道高校の森選手とは早大で同級生になった。合宿の大部屋で大横綱大鵬の「型」をめぐって議論になった時、森が「こうなれば勝てるっていう型があるのは強いよなぁ」と言った。父からの手紙の影響もあり、自分は右足のシュートを絶対にすると心に決めた。
シュートからもたつきをなくすには、いついかなる時も頭のスクリーンにゴールがあるようにする。毎日100本のシュート練習をし、そのうち右45度なら目をつぶっても左隅に入るようになった。
2.西ドイツに留学
1968年1月に西ドイツにサッカー留学した。行先はフランスと国境を接したザールブリュッケンのスポーツシューレ。初めての一人旅だった。放り込まれたのは若きプロ予備軍の群れだった。練習、試合はプロのクラブや州選抜の選考の場で選手はアピールに躍起になる。よそ者の私にパスは来ない。コーチに苦情を言うと「パスを出す側に回れ」。FWからMFになってボールをやっと触れるようになった。
厳寒のドイツだけに外での練習はそれほどしていない。66年度夏の代表合宿で訪れ、施設内の図書館に試合のフィルムがあるのを知っていた。映写機の使い方を教わり、53年にハンガリーが6対3でイングランドを下した世紀の一戦など古今の名勝負を浴びるほど見たのは、良いイメージトレーニングになったようだ。
3.メキシコ五輪3位決定戦
68年10月24日の3位決定戦は、地元メキシコの登場に10万5千人の超満員になった。前試合ハンガリー戦で削られたふくらはぎは痛いまま。杉山隆一さん、松本育夫さんら攻撃陣はいつも以上に守備に回り、点を取ることに私を専念させてくれた。
20分の先制点も40分の追加点も杉山さんのアシストだった。 1点目は私が二人のDFの間に割って入るまでの時間を巧みなボールキープで作ってくれた。その後に来たクロスも絶妙。2点目は低く強い横パスを私の足元にピタリとつけてくれた。1点目の左足シュートは甲ではなくインサイドにあたったミスキックだった。それが結果的にGKの間を外した。タックルに来たDFの股間を抜いた2点目はイメージどおり。学生時代の恩師たちが私に語って聞かせた「入れば何でもいい」と「課程も美しい」ゴールだった。
4.杉山隆一さん
私の憧れであり目標でもあった杉山隆一さんの第一印象は大人になっても変わらなかった。運動神経の塊の杉山さんはダンスを踊ってもボーリングをやってもプロ顔負けだった。
お互いが所属する三菱重工とヤンマーは日本リーグで張り合っていたが、個人的にはポジションが違う杉山さんをライバル視したことはない。ストライカーと言えば聞こえはいいが、欲しい時に欲しいボールが来ないと何もできない悲しい種族。最高のパスをくれる杉山さんは最高のパートナーだった。
代表では杉山さんの突破力と私の決定力を絡ませるために、セットで練習することが多かった。たくさんの約束事を要求し、確認し合いながら練習を積み上げていった。シュートを外すのはその約束事と信頼を台無しにすること。凄いと認めた人に対しては常に胸を張れる自分でいたい。そういう思いが私を成長させてくれた。選手としてそういう人を持てたことは本当に幸せだった。
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釜本邦茂(2014年) | ||||||||||||||
名前 | ||||||||||||||
愛称 | ガマ、ガマッチョ | |||||||||||||
カタカナ | カマモト クニシゲ | |||||||||||||
ラテン文字 | KAMAMOTO Kunishige | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 | ![]() | |||||||||||||
生年月日 | 1944年4月15日 | |||||||||||||
出身地 | 京都府京都市右京区太秦 | |||||||||||||
没年月日 | 2025年8月10日(81歳没)![]() | |||||||||||||
身長 | 179cm | |||||||||||||
体重 | 79kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | FW(CF)[1] | |||||||||||||
利き足 | 右足 | |||||||||||||
ユース | ||||||||||||||
1950?-1956 | ![]() | |||||||||||||
1957-1959 | ![]() | |||||||||||||
1960-1962 | ![]() | |||||||||||||
1963-1966 | ![]() | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1967-1984 | ![]() | 251 | (202) | |||||||||||
通算 | 251 | (202) | ||||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
1962-1963[2] | ![]() | 9[2] | (5[2]) | |||||||||||
1964-1977 | ![]() | 76 | (75[3]) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
1978-1984 | ![]() | |||||||||||||
1991-1994 | ![]() | |||||||||||||
2009 | ![]() | |||||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
釜本 邦茂(かまもと くにしげ、1944年〈昭和19年〉4月15日 - 2025年〈令和7年〉8月10日)は、日本(京都府京都市右京区太秦出身)の元サッカー選手、元サッカー指導者、元政治家、実業家。自由民主党所属の元参議院議員(1期)。日本サッカー協会 (JFA) 顧問[4]。現役時代のポジションはフォワード。元日本代表。
日本サッカーリーグでは、251試合出場し、通算202得点(歴代1位)、通算79アシスト(歴代1位)を記録。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、日本年間最優秀選手賞7回受賞(歴代1位)と傑出した活躍を見せた。また、サッカー日本代表として国際Aマッチ76試合75得点(総通算231試合153得点)を記録し、1968年メキシコオリンピックでは、アジア人初の得点王となった。2005年第1回日本サッカー殿堂入り。
日本サッカー協会やRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) の認めるサッカー日本代表の男子の単独最多得点記録保持者(75得点)であり[3][5]、国際サッカー連盟 (FIFA) でも2014年時点では最多得点記録保持者(80得点)としている[6]。詳細については、試合数の項を参照。趣味は、ゴルフ、時代劇のテレビ鑑賞。座右の銘は「己に剋つ」である[7]。
- ^ “Kunishige Kamamoto”. Transfermarkt 2023年12月26日閲覧。
- ^ a b c 国吉好弘『日本サッカーユース代表の誇り-アンダーを紐解く』ベースボール・マガジン社、2013年、343-344頁。ISBN 978-4583106113。
- ^ a b 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。「JFA
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ 名誉役員 - 日本サッカー協会・2010年7月25日
- ^ “Kunishige Kamamoto - Goals in International Matches”. RSSSF.com. 2016年9月21日閲覧。
- ^ “80 days to go”. FIFA.com (2014年3月23日). 2016年9月21日閲覧。
- ^ http://www.kakugo.tv/detail_97.html