金森徳次郎 かなもり とくじろう

行政・司法

掲載時肩書国立国会図書館長
掲載期間1958/07/29〜1958/08/14
出身地愛知県
生年月日1886/03/17
掲載回数17 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社大蔵
配偶者妻は蜂
主な仕事法制局、法制長官、天皇機関説で法答弁、辞任、貴族院議員、新憲法に関与
恩師清水澄
人脈日比野先生マラソン王、藤村操(一高1年上)、谷崎潤一郎、津島寿一、美濃部達吉、高浜虚子、岡田首相
備考浜口雄幸大蔵次官から法制局へ
論評

1886年3月17日 – 1959年6月16日)は愛知県生まれ。官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。大学で法学、憲法学を講じ、『帝国憲法要説』等を著わした。1934年、岡田啓介内閣の法制局長官に就任するが、在任中に法制局長官就任以前の著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的であるという理由で右翼勢力から攻撃を受け、1936年、辞任に追い込まれた。戦後は貴族院勅選議員を経て吉田茂内閣の憲法担当国務大臣に就任。エコノミストの金森久雄、地震学者の金森博雄は息子。

1.大蔵省から法制局へ(浜口次官から)
東大の卒業期が来た。明治天皇最後の行幸があった。御前へ出て単独に拝礼をする光栄に酔った。大蔵省に入れてもらった。当時でも浜口雄幸さんは官界の有名人であった。髭がいかめしいから男性のライオンを思わせる風貌があった。1年半ほど経って、浜口次官から呼び出された。「内閣の法制局で君を採用したいと希望してきたが・・」と言い出して、重々しい口調で私に転身を勧誘されたが、人柄は優しかった。

2.天皇機関説事件の巻き添え
昭和9年(1934)かに私が岡田啓介内閣の法制長官になったが、その地位は当時、派手なものの一つだった。ここに岡田内閣を待ち受けていた問題があった。それは天皇機関説問題であった。
 貴族院で美濃部達吉博士を非難して岡田総理に悪意の質問をするものがあり、私が呼び出されて答弁し、「学問のことは政治の舞台で論じないが良い」と言ったことが因をなして、今度は私を機関説論者なりとしてこれを排除しはじめたのである。このお陰で私は一躍して美濃部、一木、その他の一流学者と同格に避難されるようになり、光栄ではあったが、一人立ち上がって抵抗するものでもなく、意気地なく自嘲した。そのかわり、陋屋でも護衛付であるため、寄付金や押し売りの災を免れたことは不幸中の幸いだった。

3.2・26事件と松尾伝蔵大佐
公務員の中で感心した記憶を残しておきたい。岡田内閣の当時、2・26事件の時岡田総理と間違えられてピストルで撃たれて死没された秘書官の松尾伝蔵さんである。松尾さんは岡田さんの妹婿であり、正式に言えば予備の陸軍大佐であり岡田さんが総理になられた時、その秘書官的の仕事をされた。有竹氏の書いた岡田大将伝によると「松尾は義兄の岡田が大命を拝した日から、この義兄のために死のうと覚悟して福井から上京し、総理の身辺に起居した。岡田が死ぬ前にオレが死ぬ、という悲壮な覚悟で頭髪、髭、髪などできるだけ岡田に似るように心がけた」と書いてある。
 昭和8年(1933)の11月に臨時議会が開かれると、初めての臨時議会のことだから一応打ち合わせしようと総理と書記官長と私が総理官邸の小さな私室で相談した。人混ぜをしない集まりで、松尾さんが一人で酒のことを世話し、台所から海苔やスルメなどを持ち出して、法制長官は良く食うから種切れになったなどといって家庭的なくつろぎであった。ところが昭和11年(1936)の2月26日の午前に総理官邸は襲撃された。当時のことを後に岡田さんの語ったところによると「将校の率いる一隊16名ほど右方廊下を炊事場近くにやって来る・・・松尾が中庭の一隅の壁に寄りかかっているのを発見した下士官は兵に射撃を命じ・・大広間に掲げてある自分の写真を取り外し、これを松尾と見比べて“これだ、これだ”と松尾を自分と思い込み、みなどこかへ立ち去った」。
 私が特に感心することは、黙々として平素から覚悟をしておられたことである。松尾さんのお墓は福井県にある。私は一度参拝したいと思うことしきりだが志を達しない。

金森徳次郎

金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年3月17日 - 1959年6月16日)は、日本官僚政治家憲法学者岡田内閣法制局長官第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。

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