金川千尋 かながわ ちひろ

化学

掲載時肩書信越化学社長
掲載期間2006/05/01〜2006/05/31
出身地韓国
生年月日1926/03/15
掲載回数30 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他六高
入社極東物産 (三井物産)
配偶者社内結婚(表紙モデル)
主な仕事信越化学(35)海外事業部、世界セール ス、シンテック合弁・買収、工場再編
恩師・恩人市川亨、小田切新太郎
人脈宮崎雄一、小坂徳三郎(社長)、オルシェフスキー氏、コーベット氏、吉田正樹、村上久、岡田洋之、細井幸夫、増田晴男
備考M&Aベテラン
論評

1926年(昭和2)、韓国・大邱市生まれ。極東物産(現・三井物産)に入社。62年に信越化学工業入社、70年海外事業本部長、75年に取締役に就任。76年常務、79年専務、83年副社長を経て、90年に代表取締役社長となる。2010年に代表取締役会長となる。1978年から米国シンテック社取締役社長も兼任し、2011年から同社取締役会長・創業者

1.不良債権処理
極東物産(現三井物産)の管理部で不良債権の処理を担当した時、最初はつまらない仕事だと思った。商社ではやはり営業が花形だ。しかし、部長だった宮崎雄一さんに「君が40代、50代になったら、いかに大事な仕事かが分かるよ」と諭された。
 その通りだった。代金を払えない取引先での強制執行や破産申請などに携わり、潰れた会社の経営を裏側から見ることができたのだから。破産とは何か、理屈ではなく現実に体感した。会社が破産すると経営者はどんな境遇に置かれ、どんな運命をたどるのかもつぶさに見た。管理部での得難い経験は、経営者になった私の中で今も生きている。

2.海外事業進出の教訓(カントリー・リスク)
1960年代後半はいつも着替えやカタログなどがぎっしり詰まった大きなトランクを2つ持ち、ほとんど一人で世界を駆け回った。1967年(昭和42)には、中米ニカラグアに塩化ビニール製造の合弁会社「ポリカサ」を設立した。当社が33.75%を出資し、現地の有力実業家と政府系金融機関が資本参加した。工場は田中貞弘氏(後に信越エンジニアリング社長)と清野順一氏(現長野電子工業会長)の素晴らしい設計により完成し、70年に稼働した。
 私の任務は会社全体の経営企画だった。最先端の製造設備、簡素化された組織人員、資金手当て、収支計画などが課題で、最も重要なテーマがマーケティングである。ニカラグアはグァテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、コスタリカと中米5か国の関税同盟を結んでいた。規模の小さな工場と市場で製品を売るには、高率の輸入関税による保護が必要だ。お陰で中米でも1,2位を争う高収益企業に成長した。
 ところが製造開始後、約10年は順調だったが、79年にサンディニスタ民族解放戦線による革命が勃発した。独裁政権が米国の力を借りてでも鎮圧してくれることを願ったが、ソモサ大統領は亡命し、後に暗殺された。当社としては技術指導料やプラントの輸出、配当などで投資額の3,4倍は回収できた。ここでカントリー・リスクを実地に学べたことも大きい。10年以上かけてよい企業に育てたのに革命で突然なくなってしまった。不可抗力といえるが、やはりショックだった。この経験は、事業を進める上でカントリー・リスクを絶対に避けなければならないことを私に教えてくれた。

3.社長就任で取り組んだこと
1990年(平成2)8月、小坂雄太郎社長が急逝し、筆頭副社長の私が社長に就任した。バブル崩壊の年に、急遽、トップの重責を担う巡り合わせになった。社長として何をなすべきか。しばらく考えたが、シンテックで長く社長を務めた私の目には、経営効率の点で信越化学がかなり遅れているように見えた。
①まず最初に大きく変えたのは新卒採用だ。社長就任前は600人前後採用していたが、思い切ってほぼゼロにした。
②財務部門に約20人の社員がいたので、部門長に「二人ぐらいで済むのではないか」と尋ねたことがある。(シンテックでは秘書が財務を担当していた。「経営のヒント」参照)
③会議の無駄も省いた。取締役会は月2回から1回に減らした。1回当たりの時間もほぼ半分にした。全社的に会議の時間は3分の一以下に短縮されたと思う。
④私が委員長となって「Z委員会」をつくった。研究所や工場、営業部門から委員を集めて10のテーマを選び、研究開発を進めた。この中で成功したのが、半導体製造に使う感光性樹脂のフォトレジストだ。最後発だったが、あえて最先端のエキシマレーザー用の高解像品に挑戦した。1992年に研究開発を始めて98年に本格生産し、一時は世界シエアの約4割を押さえた。

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