掲載時肩書 | 画家 |
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掲載期間 | 2004/05/01〜2004/05/31 |
出身地 | 福岡県 |
生年月日 | 1920/12/17 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | |
入社 | |
配偶者 | 妹友・陽子、後妻はママ |
主な仕事 | 病気療養、無言館(窪島誠一郎と)、欧州9年放浪、個展、芸大助教授、 |
恩師・恩人 | 今中利見、鳥飼竜海、小林萬吾 |
人脈 | 駒井哲郎、田中小実昌(妹婿)、黒田清輝夫人、岡本半三 |
備考 | 父:炭鉱経営 |
1920年12月17日 – )は福岡県生まれ。洋画家。炭鉱経営者の子として生まれる。東京美術学校(現東京藝術大学)入学当時は故郷の炭鉱を制作の原風景とし、その後12年間のパリ生活を経て、抽象画へと変化した。野見山の実妹は田中小実昌の妻。田中の死去まで実の兄弟のような交流があった。姪(田中の次女)は小説家田中りえ。
1.恩人・鳥飼竜海先生
中学の鳥飼先生は美術学校の師範科を出た人だが、お寺の伜のせいか、東洋画をもって絵とみなしている。先生はぼくに日本画を勧めたが、火鉢で、しんねりと膠を溶かしたりするのは、まどろっこしい。美術学校の洋画科に行きたいというと、日本画なら鍛えられるが、石膏デッサンはなぁと先生は途方に暮れた。
ある日、先生が自宅にやってきて、父にギョージを美術学校にやらしてくれ、と頼み込んだ。父は自分の事業を大きく伸ばそうとして、ようやく後継者のことをなど気にしだした矢先のことだ。先生の頼みを、聞き入れる耳など持ってはいない。長男のギョージは九大の工学部に入れる・・・。
そのとき鳥飼先生は大きく口を開いて笑った。ギョージが九大、工学部・・・親御さんは何を考えていなさるやら。成績がどうだとか、そこを何とかあえて、といった言い方なら父も返す言葉があっただろう。このあけすけな笑いの声には、ただ呆気にとられていた。その後、いろいろやり取りがあった。
ほとぼりがさめたころ、先生は再度、父と向かい合った。ギョージをどうなさるおつもりなのか。もう父には闘志は残っていなかった。「先生に任す」、たった一言でおしまいになった。
2.石膏像の素描に自信
美術学校の入試前に同舟舎という塾の予備校に入った。先生は美術学校で現役の教授だった。西洋で油絵を習ってきた小林萬吾先生が、試験を間近にひかえた最後の塾生コンクールに参加された。助手は自分の才覚で序列順に作品を並べて終えて、小林先生に批評を仰いだ。最初の4,5枚を先生は満足そうに眺め、ここまで通る、と合格のお墨付きだ。
その次の何枚かは励ましの言葉になり、それから少しずつ厳しくなり、もう終わりの方は何も言わなかった。ふいとぼくのデッサンに目をやり、これは誰かと尋ねた。どこから来た?名は何という、どんな字だ?誰に教わった?鳥飼センセイ?
小林先生はみんなに向かってこう言った。最初の4,5枚は立体を掴んでいる。しかしこのデッサンには石膏の重さがある。みんなよく見なさい。重さを描いているのはこの一枚だけだ。
3.参謀・田中小実昌(義弟)
東玉川の家にコミちゃん(田中小実昌)が訪ねてきたときは24,5歳だったろう。頭はもう禿げていた。彼はその頃、テキヤだった。そんな男が実妹のマドと一緒になってぼくのうちに住みついた。学園紛争が起き、何気なく、その団交に顔を出した小磯良平教授は、いきなり胸ぐらを学生に掴まれ、学校に出なくなった。
ただ一人、助教授で残ったぼくの下には、ふたりの講師と助手がいるだけ。だんだん激してきた学生たちは「教授会を傍聴させろ」という。仕方なく、「明日とことん話し合ったうえで君たちの要求を入れよう」と約束。夕飯のときコミちゃんに相談したら、俺の言う通りにするんだよと策を授けてくれた。翌日、学生達に言った。
君たちは情けない。教授会を傍聴させろなんて、みみっちすぎる、なんで教授会に参画させろと言わん。ここで拍手が1分20秒ぐらい続く。その間ぼくは黙って待つ。シナリオ通りだ。
よく聞いてもらいたい、教授会に参画する君たちは圧倒的多数で、君たちの中からやがて学長や学部長が選出される。それだけの用意は君たちあるんだろうな・・・ぼくはコミちゃんに指示されたように念を押した。
いい調子だ。ちょっとしたスターになった。毎晩、参謀に報告し明日の策を授かったが、テキヤというのは、うまく大衆を誘導するものだ。兄貴も又、言われた通り、やるもんねぇと、マドが笑った。
氏は‘23年6月22日、102歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’04年5月の84歳のときでした。
1.嘘つきクセ
ぼくのうちは日本で3番目の大金持ち。こともあろうにこの嘘は、ぼくがばら撒いた。たしか美術学校の2年生になったとき、新聞に同姓の人が個人所得のトップ・クラスに出ていて、同じ福岡県、同じ炭鉱業。おれの親父、こう大っぴらに出ちゃまずいな、とうそぶいて見せたのが始まりだった。
後年、銀座でぼくが個展をやっているとき、女子大生会場に来合わせて、私のクラスにノミヤマさんがいますと言う。そりゃぼくの妹だと、からかったら、翌日、会場にそのノミヤマさんが現れて、「失礼じゃないですか、うちは立派なノミヤマなのに」と息巻かれた。
2.無言館
1996年、信州、上田の丘の上に無言館という、戦没した画学生の作品を蒐めた美術館を作った。ぼくの同級生やその前後、ずいぶんと思い出す顔が交っている。はじめは鎮魂の思いがあった。やがて、物言わぬ遺作に籠る一途さを、後に伝えたいと願うようになった。しかし家々を訪ねて回り、その蒐集にこだわった蔭には、戦争がもたらした怖ろしさに浸ることで、自分の身がかくまわれるような、そんな姑息な思いもあった。
企画を立て、走り回り、見事に実現したのは窪島誠一郎という、ぼくより年下の大男であった。彼は6歳のときに家を空襲で失くしたから、又ぼくと違った何かがシコリみたいにへばりついているのだろう。
無言館のムゴンにかけて6月5日の無言忌(今年は6月6日)、毎年、遺族の方たちと、丘の上にある美術館で落合い、描き遺された絵がいつもの壁に飾られているのを確かめて安堵する。死者のまなざしは不変だが、集まるぼくたちは次第に姿を変えていく。残された作品はどれも、ごくありきたりのモチーフだが、平和を願う心情が、ぼくには痛いほどわかる。家族の誰彼、友人の顔、恋人の姿、いつも歩く道。何のてらいもなく一筆一筆に思いがこもっている。
*日経新聞(6月26日)朝刊の社会欄に次の「追悼」記事が出ました。
戦中派世代の野見山さんは、「自分だけが生きて帰った」との思いが強かったという。戦地に渡ったものの病を患い、故郷・福岡の療養所で終戦。仲間を失い、戦争に負けたという虚無感の中で「日本を出れば、また絵が描けるかもしれない」と渡仏を決意した。「セザンヌやボナール、マティスが描いたヨーロッパの風景がなんとしても見たかった」。2015年、パリの画家仲間だった金山康喜の個展を開催中の美術館で、野見山さんは留学時の気持ちをそう振り返った。戦前の日本には、本物の西洋絵画が見られる本格的な公立の美術館などほとんどなかったのだ。
自由でのびやかな筆致と洗練された色使いが持ち味だが、11年秋の個展には驚かされた。東日本大震災の被災地を歩いた体験を激しい色彩で表現した新作を出品していた。この時、90歳。会場で戦前の初期作からの歩みをたどり、ひとところにとどまることなく画風を刷新しつづけたバイタリティーには圧倒されるほかなかった。20年12月に100歳となり、翌21年1月に始まった大規模な個展では、生命の誕生を思わせるようなエネルギッシュな大作の新作を出品した。個展のオープニングやトークイベントは、いつも人だかりの大盛況。「この年齢だからね。パンダと同じで珍しいもの見たさなんだよ」と笑っていたが、作品同様のおおらかで温かい人柄が多くのファンに愛された画家だった。(編集委員 窪田直子)
野見山 暁治 | |
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野見山 曉治 | |
文化勲章受章に際して 公表された肖像写真 | |
生誕 | 野見山 曉治 1920年12月17日 福岡県嘉穂郡穂波村 |
死没 | 2023年6月22日(102歳没) 福岡県福岡市城南区 |
出身校 | 東京美術学校洋画科卒業 |
民族 | 大和民族 |
活動期間 | 1946年 - 2023年 |
野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉12月17日 - 2023年〈令和5年〉6月22日[1][2] )は、日本の洋画家。位階は従三位。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者。
本名は「暁」が旧字体の野見山 曉治であり、文化勲章受章時の名簿でもそのように記載されている[3]。
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