野村万蔵 のむら まんぞう

映画演劇

掲載時肩書能楽狂言方・芸術院会員
掲載期間1978/02/01〜1978/02/28
出身地東京都
生年月日1898/07/22
掲載回数28 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
専門学校
学歴その他
入社4歳舞台
配偶者31歳見合い
主な仕事面打ち(下村師、観山の兄)、発音練習 、狩猟、俳句、米国指導、欧州公演、
恩師父親&下村清時
人脈宝生九郎、平櫛田中、下村観山、高浜虚子、柳田国男、折口信夫、中村天風、
備考能・狂言師(公家・大名保護)
論評

1898年(明治31年)7月22日 – 1978年(昭和53年)5月6日)は東京生まれ。狂言方能楽師、五世野村万造の長男。九世三宅藤九郎は弟。戦後の「第一次狂言ブーム」において、息子の万之丞(七世万蔵)・万作などの活動と共にクローズアップされる。芸風は型に忠実なものでありながら、老年にいたって型にとらわれない飄逸さ・写実性を加え、名人として高い評価を受けた。また狂言面など古面を蒐集する一方で能面打ちとしても知られ、自作の能面や狂言面を多数残した。芸の心得を「履歴書」に書いている。

1.能と狂言
狂言の場合、ひところは能の添え物のような見方をされていた。そんな時代はずいぶん永く続いたのである。私も子供心に、悔しい思いをした記憶がある。しかし昨今は、狂言自体の固有の価値が再評価され、研究書も多くなり、狂言だけの催しも、珍しいことではなくなった。
 能の精神性重視に比べて現実的である狂言では、表現様式が能より写実の面に一歩踏み込んでいるため、老人は腰を屈曲し、女はやや内股に歩き、大名は肘を張って威風を示す。しかし、写実的とはいうものの、狂言にはやはり、自ら一定の限界があり、また絶対に越えべかざる境界線が存在する。狂言のもたらす自由性を、過度に使いすぎるのは戒めなければならないが、一方、演技的に見て、恐れのない自由境が幾多あり、それらをはっきりさせないところに、かえって妙味をさえ感じさせられるのです。

2.狂言流派
狂言には、大蔵流、鷺流、和泉流の3流があり、大蔵流と鷺流が江戸幕府に仕えたのに対し、和泉流は尾張藩に召し抱えられたが、同じ和泉流の野村万蔵の家は代々狂言の家であるが、金沢の前田家に召し抱えられた。しかし維新後は、徳川幕府のバックが無くなるとともに能・狂言とも衰退する運命となった。

3.狂言の修業と芸
この修業は、「猿に始まって、猿に終わる」と言われている。その過程に「三番叟」を体得するのが、重要な一段階となっている。これを勤めることによって、初めて許される役も多くあるわけで、いわば芸の登竜門。
 三番叟は「翁式」の中で舞われる。翁と三番叟と千歳の三者が演ずるこの舞台には、会話は少なく、一種の呪文に近いことばがある。翁は天下泰平を祈願し、三番叟は五穀成就を寿ぐと言い伝えられ、だから新春の初能にはよく行われるのである。
 翁式は、一般の能・狂言とは趣を異にして、能楽における一つの儀式としての形を整え、特別に扱われているもので、古くは「式三番」とも呼ばれていた。翁と千歳は能役者が、三番叟は狂言方が演じる決まりであるが、下掛かり(金春、金剛、喜多)の場合は、千歳も狂言方が勤める。三番叟の役には「頭取」の名があり、狂言方として、その日の首座を占める重要な地位になる。
 三番叟は「三番を踏む」という言葉どおり、非常に足拍子が多いのが特色である。揉み出し・初段・二段・抜き足・留と、五通りの拍子がある。私は明治44年(1911)13歳のとき、この三番叟を勤めた。

4.出演時のおきて
翁式は、神聖な儀式とみなされているから、役者の方にも、様々な規制が加わる。勤める前に、潔斎をする習わしとし、いささかの不浄も嫌うのである。まず各役者は「別火」といって、家人と火を異にして別居生活に入る。自炊をし、身の回りのことすべて、他人の手を借りてはならない。一種の「行」である。
 別火の期間は、女性と口をきくのも厳禁される。また、三番叟の出演時は、「水ごり」をとって家を出る。

6世野村 万蔵(のむら まんぞう、1898年明治31年)7月22日 - 1978年昭和53年)5月6日)は、狂言能楽師日本芸術院会員・各個認定の重要無形文化財保持者(人間国宝)。

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