掲載時肩書 | 一橋大学名誉教授 |
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掲載期間 | 2019/09/01〜2019/09/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1935/05/10 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 米カルフォルニア・バークレー校 |
入社 | 富士電機株式会社 |
配偶者 | |
主な仕事 | 工場、米留学、個人→組織意思、防衛大、一橋大、失敗の本質、 |
恩師・恩人 | 奥住高彦・高宮晋 |
人脈 | 王貞治、江戸英雄・恩、竹内弘高、加護野忠男、猪木正道、小林陽太郎、 |
備考 | 知識創造企業論 |
氏は、「知識経営の生みの親」として知られる。
1.「知識創造企業」理論
これは「経営に対し個人意思を分析の単位とする情報処理モデルを、組織の意思を分析単位とするモデルに発展させた」ものだった。これが「知識創造企業」理論であり、博士論文の「組織と企業」から出発している。これが世間から高い評価を受けたのは、日本の経営学界ではそれまで、主にドイツで確立した経営理論を日本で紹介する「解釈学」が主流だった。しかし、氏は米国のようにケーススタディを基に独自の理論を構築した「組織主義」論文だったからだった。
2.この理論の下地
この下地は入社した富士電機・工場勤務の総務人事担当で培われた。労働組合の執行役員と工場長・幹部との定期的団体交渉の立ち合いや工員の教育訓練担当、本社の担当者と協力して教育システムを作成など、本社や工場の幹部と接する場が多く、工場全体のマネジメントと現場のつながりを若くして体験することができた。これにより、個人の経営分析より組織の意思行動の重要性が認識できたと思われる。
3.知識創造のプロセス
氏は知識創造のプロセスは、ビジョン、対話、実践、場、知識資産、環境の6要素からなるが、そのプロセスを実践できるのはフロネシス(賢慮)を備えたリーダーのみだという。このリーダーの特徴は、卓越した「善い」目的をつくる能力、他者とのコンテクスト(文脈)を共有し、場を触発する能力、ありのままに現実を凝視する能力、賢慮を伝承・育成する能力である。これに該当するリーダーは、今までの代表的な経営者では松下幸之助や本田宗一郎であり、現代では、京セラ・稲盛和夫の「利他主義が行動規範でアメーバ経営の利益管理を実践」、富士フイルム・古森重隆の無限の革新力となる「マッスル・インテリジェンス」、エーザイ・内藤晴夫の「ヒューマン・ヘルスケア」、キャノン・御手洗富士夫の「経営とはバランスシートで語る物語」などを挙げている。氏は30代のときから「経営学は企業が研究の対象」として重要視し、企業で働く人の生の声を聞き、実態をつかまなければよい研究はできないとの信念で80代の現在でも、企業訪問を続けている。
4.社外取締役の役割
私が特に印象に残った個所は、氏の「社外取締役」の役割論である。社外取締役が些細な問題に口を出しすぎると、事務局は準備に追われ、場合によっては取締役会用の想定問答まで用意するようになる。社外取締役は社内の役員や監査役が気づかないような大きな視野に立った本質論を展開しなければならないと強調する。事実、「企業経営に携わった経験がある社外取締役は細部に目を向け、有識者の社外取締役は経営の実態を踏まえない空理空論を唱えがちだから、議論はまとまらず混乱が起きてしまう」と説く。私(吉田)は総務部門が長く取締役会の実態を知っているだけに、氏の説く「あるべき姿の社外取締役」論は理想であるだけに、適任者は非常に少ないと思った。
氏は2025年1月25日、89歳で亡くなった。この「私の履歴書」に登場は2019年9月で84歳の時でした。1935年東京都生まれ。58年に早稲田大政治経済学部を卒業。富士電機製造(現富士電機)を経て、67年に米カリフォルニア大バークレー校経営大学院に進学。82年に一橋大教授に就任した。
1.私の性格
私の強みをあえて言えば、職人だった父親譲りの「しっこさ」だろうか。経営学は企業が研究の対象だ。経営学者として歩み始めた30代のとき、先輩の学者に引っ張られて企業への訪問を始めた。企業で働く人の生の声を聴き、実態を掴まなければ良い研究はできないとの見方を強めた。以来、80代になった今も、共同研究者たちの助けを借りながら訪問を続けている。現場の動きを調査できる「ドサ回り」こそ、実りある研究の原動力と確信している。
2.博士論文の選択
博士論文の書き方は2通りある。最も多いのは指導教官の理論や仮説の一部を検証する論文で、いわば親方の理論の継承である。親方の説に従った論文だから書き易いし、審査にも通りやすい。もう一つが指導教官の説とは異なる視点を入れて仕上げる方法で、教官を批判するまではいかなくても、場合によっては関係が悪くなる可能性もある。私が選んだのは後者だった。
*日本経済新聞 2025年1月27日付 野中郁次郎氏「評伝」より
製品開発はリレーよりラグビーだ――。世界に経営学者Nonakaの名がとどろいたのは「スクラム」の発見がきっかけだった。ソニーのウォークマンが市場を席巻した1980年代、成功の秘訣を世界中の経営者が知りたがった。「日本企業はなぜ製品開発のスピードが速いのか」。米ハーバード大の研究者が発した問いに論文で答えたのが野中郁次郎氏だった。
当時、製品開発といえば設計から製造まで担当者がバトンをつないでいくリレー方式が主流だった。対して野中氏が調査したホンダやキヤノンなどの日本企業は、研究から工場まで異なる部門が一体となり開発を進めていた。チームが声をかけ合いながら一気にゴールへと駆け抜ける。86年、日本企業の開発プロセスをラグビーのスクラムにたとえた論文は大きな反響を呼ぶ。日本経済が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされながら、企業の成功要因を掘り下げた研究は珍しかった。
90年代に入ると、経験や直感を土台とする「暗黙知」を軸に、組織が対話により新しい知を生み出すプロセスを定式化した。経営の本質を知識の創造だと喝破した94年の論文は現在、3万を超える引用件数を誇る。翌95年に英語で発表した著書を、経営学の神様といわれたピーター・ドラッカーは「現代の名著」と評した。
多くの研究をともにした国際基督教大(ICU)理事長の竹内弘高氏は「とにかく現場での観察を大事にしながら、あれほど本を読んでいた人を知らない。物事の本質を見極めたいという欲求に突き動かされている人だった」と振り返る。野中氏が名声を確立したのは、日本企業がバブル崩壊後の挫折を味わった時期と重なる。そして日本中の経営者が転落の要因を見極める際に参照したのも野中氏だった。日本軍の敗因を探ったベストセラー「失敗の本質」は、成功体験への過剰適応やあいまいな戦略目的など、迷走する日本企業の弱点をあぶり出した。
21世紀に入ると、野中氏は自らの理論の実践と継承に力を注いだ。一橋大学の教授陣と共に企業のリーダーを養成する「ナレッジ・フォーラム」を立ち上げ、ホンダや三井物産など日本を代表する企業のトップが巣立った。かたや80年代に発見したスクラム型の開発プロセスは、米シリコンバレーでソフトウエア開発の標準モデルとして受け入れられた。「数字やデータの奴隷にならないために、人間としての野性を育てなければならない」。2023年、日本企業が再び輝くためのヒントを問うとそう繰り返した。企業経営の本質を探る旅路は晩年まで続き、新著「二項動態経営」の書評が25日の日本経済新聞朝刊に掲載されたばかりだった。日本企業が失われた30年を脱しつつある今こそ、野中氏の残した知の遺産を訪ねるときかもしれない。(高橋元気)
野中 郁次郎 | |
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![]() 日本学士院より公表された肖像 | |
生誕 | 1935年5月10日![]() |
死没 | 2025年1月25日(89歳没)![]() |
国籍 | ![]() |
研究分野 | 経営学 |
研究機関 | 南山大学 防衛大学校 一橋大学 北陸先端科学技術大学院大学 |
出身校 | 早稲田大学(学士) カリフォルニア大学バークレー校(修士(MBA)) カリフォルニア大学バークレー校(博士(Ph.D)) |
博士課程 指導教員 | フランセスコ・M・ニコシア |
他の指導教員 | ニール・J. スメルサー アーサー・スティンチコーム |
主な指導学生 | 宮原博昭[1] 沼上幹[2] 網倉久永 大薗恵美[3] 野田稔[4] 川村尚也[5] 高橋克徳[6] |
主な業績 | 知識経営 |
影響を 与えた人物 | 竹内弘高 米倉誠一郎[7] |
主な受賞歴 | 日経・経済図書文化賞(1974年) 組織学会高宮賞(1984年) 経営科学文献賞(1991年) 紫綬褒章(2002年) カリフォルニア大学バークレー校生涯功績賞(2017年) ピーター・ドラッカー・ソサエティ・ヨーロッパ名誉フェロー(2023年) |
プロジェクト:人物伝 |
野中 郁次郎(のなか いくじろう, 1935年5月10日 - 2025年1月25日)は、日本の経営学者。一橋大学名誉教授、カリフォルニア大学バークレー校特別名誉教授、日本学士院会員。元組織学会会長。
知識経営の生みの親として知られる。
2017年、カリフォルニア大学バークレー校ハース・ビジネススクールから同大学最高賞の生涯功績賞を史上5人目として授与された。