掲載時肩書 | 参議院議長 |
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掲載期間 | 1962/11/07〜1962/11/26 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1894/02/11 |
掲載回数 | 20 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 東京工業大学 |
学歴その他 | 東工大付属高校 |
入社 | 明電舎 |
配偶者 | 見合:華・家元娘 |
主な仕事 | 24歳渡米、渡欧、社長、水晶発掘、勅選議員、参議員、運輸大臣、議長 |
恩師・恩人 | 長兄芳水・明電舎創設 |
人脈 | 石川海典(日蓮宗)、林譲治、松野鶴平、岸信介、佐藤栄作 |
備考 | 父57歳の子、日蓮宗帰依 |
1894年(明治27年)2月11日 – 1976年(昭和51年)3月13日)は山口県生まれ。政治家、実業家。1912年(明治45年)3月、東京高等工業学校附属工業補習学校(現東工大附属高専攻科)を卒業し、兄重宗芳水が創業した明電舎に入社。後に社長・会長を務める。1946年(昭和21年)8月14日、貴族院議員に勅選される。その後、同郷の岸信介、佐藤栄作兄弟に懇請される形で1947年(昭和22年)、第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、当選する。1953年(昭和28年)から三年間、参議院副議長。1959年(昭和34年)、岸内閣に運輸大臣として入閣する。自民党参議院議員会長などを経て、1962年に参議院議長に就任する。参議院議長を3期9年間にわたり務めた。
1.24歳で渡米して修業
大正6年(1917)、明電舎社長の長兄芳水は44歳の若さで亡くなった。長兄が病死してしまうと、私はあたかも木から落ちた猿のようなものだった。いままで長兄に可愛がられていた妬みなどが回りから一度に出て四面楚歌のありさま、どうにもならなくなってしまった。長兄の死と共に親類から体よく放り出される形で、米国へ渡ることになったのである。
米国はニューヨーク州のロチェスター市が私の渡航先であった。大正8年5月満24歳のときであった。工場では見習いとしていろんな仕事を手伝った。ベッツ機械工場ではベッツ・マシン・カンパニーとブリッジ・フォードが合併した大きな会社で工員もたくさんいた。いろんな国籍のものが入り混じっており、私をつかまえて「ジャパンはチャイナのどのへんだ」などと大真面目で聞く者さえあった。助手として製図場に行ったり、焼き入れ場に行ったり、旋盤をいじったりして黒人などと一緒に働かされた。この工場で働いた経験は私がその後明電舎をやっていくのに大いに役立ったと思う。
2.日本で水晶を発掘する
第二次大戦中は陸軍の使用していた水晶発振子の95%は明電舎が補給していた。当時わが国は水晶をブラジルから輸入していた。ところがこの大戦が激しさを加えるにつれ、ブラジルからの船もとだえてしまった。陸軍も海軍も水晶探しに躍起となった。水晶発振子を手掛けていた手前、私も肝心の水晶がなくてはどうしようもないので水晶探しに乗り出した。そこで昔発掘実績のある甲州に目を付けた。
私は山支度に身を固めて甲斐の国金峰山麓の上黒平へ出かけた。馬の背から降りて上黒平の東方約4キロ、南向きの沢の所で珪石が細い線のようになっている樋(ひ)を発見した。私の目がそれを見逃すはずがなかった。長石や雲母などと珪石が一緒になると御影石ができるが、珪石だけだとそれがある条件の下で育って水晶になるのだ。私は直ちに「ここを掘れ」と命令した。いろいろ失敗を繰り返しながら、掘り始めてから11か月目に亀の甲に似た道石が発見された。これは縁起が良いとなおも掘り続けるとこの日からちょうど10日後、さらに20m進んだところで第一の釜を掘り当てた。大小4か所の釜から約6トンの水晶が出てきたのである。大きなものは長さ1m、重さ75キロにおよび、軍部の人も大喜びだった。
3.運輸大臣就任で感じたこと
昭和34年(1959)岸内閣のとき運輸大臣になった。前任者の永野護氏が健康上の理由と十河国鉄総裁の再任問題で嫌気がさし「政治家は信用できない」という微妙な発言を残して急にやめてしまったからだ。
運輸省に行ってまず感じたことは全くヒモの多い役所だということだった。熱海―大島航路の認可が政界の派閥とも絡んで大問題になっていたが、一社独占を自由競争にした途端、サービスもよくなり喜ばれた。また、役人などのやり方も汚いものが多く、次の選挙に出ようという連中などは特にひどかった。誰かに推薦してもらわなければならないので売り込みはするし、命令されれば自分の上の大臣にケチをつけることも平気のようだった。私にはそんなお役所のいやらしさが耐え切れなかったので、次の内閣改造のとき、辞めさせてもらった。
重宗 雄三 しげむね ゆうぞう | |
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生年月日 | 1894年2月11日 |
出生地 | 山口県岩国市 |
没年月日 | 1976年3月13日(82歳没) |
出身校 | 東京高等工業学校附属工業補習学校 (現東京工業大学附属科学技術高等学校) |
前職 | 明電舎代表取締役社長 |
所属政党 | (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 勲一等旭日大綬章 藍綬褒章 参議院永年在職議員 |
第8-10代 参議院議長 | |
在任期間 | 1962年8月6日 - 1971年7月17日 |
天皇 | 昭和天皇 |
在任期間 | 1953年5月19日 - 1956年5月9日 |
議長 | 河井彌八 松野鶴平 |
第24代 運輸大臣 | |
内閣 | 第2次岸内閣 |
在任期間 | 1959年4月24日 - 1959年6月18日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1974年7月7日 |
選挙区 | 勅選議員 |
在任期間 | 1946年8月14日 - 1947年5月2日 |
その他の職歴 | |
第4代 自由民主党参議院議員会長 総裁:岸信介、池田勇人 (1959年 - 1961年) |
重宗 雄三(しげむね ゆうぞう、1894年(明治27年)2月11日 - 1976年(昭和51年)3月13日[1])は、日本の政治家、実業家。
参議院議長(第8-10代)、参議院副議長(第4代)、運輸大臣(第24代)を歴任。