電機
| 掲載時肩書 | 三菱電機名誉会長 | 
|---|---|
| 掲載期間 | 1986/07/01〜1986/07/31 | 
| 出身地 | 広島県呉 | 
| 生年月日 | 1910/03/04 | 
| 掲載回数 | 31 回 | 
| 執筆時年齢 | 76 歳 | 
| 最終学歴 |  九州大学 | 
| 学歴その他 | 高知高等高校 | 
| 入社 | 三菱電機 | 
| 配偶者 | 宮地>進藤教授娘 | 
| 主な仕事 | 長崎原爆、水素冷却発電機、ふとん乾燥機、原子力事業、通信衛星、日本電気工業会会長 | 
| 恩師・恩人 | 正木良一、関義長、大久保謙社長 | 
| 人脈 | ダークダックス、由紀さおり、秋友素身、大西正男、高杉晋一、末永聡一郎、大森淳夫、牧田与一郎 | 
| 備考 | 歌好き | 
1910年3月4日 – 2002年2月22日)は広島県呉市生まれ。実業家。三菱電機社長を歴任。進藤社長在任10年の間にクリーンヒーター、ふとん乾燥機などのヒット商品を生み、赤字だった家電部門は黒字に転じた。またこの時代にエレクトロニクス産業が急成長。半導体、宇宙事業、通信事業などの基盤を確立した。またFM東京、ホテルニューオータニ、三菱総合研究所各取締役を務め、通商産業省産業構造審議会委員、日本電機工業会会長、日本電子機械工業会会長、電気倶楽部理事長などを歴任した。
1.長崎製作所の被爆
 昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎に原爆が投下された。後の記録によると、同日未明、テニアン島の基地を出発した米空軍のB29型爆撃機「ボックスカー」は第一目標地点、小倉に向かった。しかし、小倉上空は雲で覆われていたため、目視爆撃を断念、第二目標の長崎攻撃に転じた。長崎上空に達すると、わずかながら雲が切れ、機長らは兵器製作所、三菱製鋼を確認、高度約9千mから原爆を投下した。TNT火薬22キロトンに相当するこの爆弾は高度500mで爆発した。
  その瞬間はさしたる音は聞こえなかったような気がする。「アッ、B29が来た」と誰かが叫んだ声を聞き、外へ出てふっと見上げたら、ピカッと来たので、すぐ部屋の中へ駆け込み、机の下に潜り込んだ。気がついてみると、机の後ろの金属製書棚が倒れていた。机に向かっていたら書棚で押しつぶされていただろう。
  長崎製作所の原爆による被害は次の通りである。カッコ内は爆心地からの距離を示す。@本工場(南3千m)建物全域損壊、従業員約4千人のうち重軽傷多数、@鋳物工場(南5百m)全壊全焼、従業員約百十人、学徒報国隊約90人共に全滅、@城山寮・城山教習所(西6百m)全壊、実習中の指導員、養成工など従業員約160人全滅など(三菱電機社史より)。その後の死亡者も加えると、三菱電機で働いていた人のうち合計472人が亡くなられた。
2.三菱グループの原子力事業
 昭和39年(1964)には、三菱グループの原子力事業の再編成が行われ、私も調整作業の中心メンバーとなり、検討を加えた。それまでの三菱電機の原子力開発を振り返ると、28、29年ごろ、原子力平和利用の動きと共に、いち早く原子炉の研究に着手している。33年、わが国最初のエンジニアリング会社、三菱原子力工業を設立、関義長社長がその初代社長を兼任した。36年にウェスティングハウス(WH)社から加圧水型軽水炉の技術を導入したが、三菱グループ内での原子力事業取り組みに調整が必要となった。
  そこで、三菱重工業が原子炉構造、冷却系、蒸気発生器、タービンなど、三菱電機が発電機、計測制御装置、監視制御盤、電力系統設備などの製造を担当し、三菱原子力工業が炉心などの基本設計と全体を取り纏めることになった。この体制で、関西電力から受注した美浜原子力発電所1号機を建設した。同機は45年に発送電に成功し、大阪で開かれた万国博覧会に原子の灯をともした。
3.人工衛星事業への取り組み
 昭和51年(1976)7月、鎌倉製作所に人工衛星総合組立工場が完成した。宇宙開発事業団より電離層観測衛星、技術試験衛星などを相次いで受注したためでもあるが、宇宙開発は21世紀に向けてさらに活発化すると考え、それに備えたものである。
 53年(1978)3月、政府が宇宙開発は国産技術を育成しながら推進するとの政策大綱を決めたことから、宇宙開発関連工場を整備することにした。相模製作所に宇宙機器専用の複合部材工場を新設するとともに、鎌倉製作所の衛星工場を4倍に拡張した。複合部材といえばいかめしいが、実はゴルフのカーボンシャフトと同じ材料だ。現在、アンテナなど衛星の構造物の大半がこの炭素繊維でできており、当時の判断は正しかったと思う。一方、衛星工場は一度に4台の大型衛星を組み立てられる東洋一の規模になった。