掲載時肩書 | 伊藤忠商事会長 |
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掲載期間 | 1975/09/17〜1975/10/14 |
出身地 | 滋賀県彦根 |
生年月日 | 1901/04/26 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 神戸大学 |
学歴その他 | 八幡商 |
入社 | 合同紡績 |
配偶者 | 胃腸薬娘 |
主な仕事 | 伊藤忠、青島・奉天・京城引揚、大建産業、東亜石油、いすゞ自動車、繊維:他=83:17 |
恩師・恩人 | 伊藤忠兵衛 |
人脈 | 水島校長、岸信介・椎名悦三郎(奉天)中司清・近藤信男(紡績)豊田利三郎、山下太郎、堀田庄三、永野重雄 |
備考 | 瀬島龍三採用、「相場の神様」 |
1901年(明治34年)4月26日 – 1991年(平成3年)4月2日)は滋賀県出身。実業家、元伊藤忠商事社長・会長。「伊藤忠中興の祖」、「繊維相場の神様」とよばれた。社長就任後は瀬島龍三らを重用し、伊藤忠の「総合化と国際化」を掲げ、非繊維部門の拡充と海外進出を推進した。1974年(昭和49年)に社長退任するまでの間、日本が高度経済成長期という環境にあったものの、在任中に資本金6.5倍、人員2.7倍、売上高10倍、グループ会社数2.5倍と大きく発展させた。
1.相場の神様「売・買の転機」
私はよく人に言うのだが、相場にもっとも大切なことは、先行き見通しであることは間違いないが、さらにはそれをいつ手仕舞うか、つまり売ったものは買いに、買ったものは売りに、いつ転じるかというその転機が成功不成功の分かれ道になる。計算上いくら利益があがっていようと、実際にそれを手に入れなくては、絵に描いたモチに過ぎない。だから、この「転ずる」ということは、商売上非常に重要な要素になる。
私は幸いに転機を的確にとらえ得たことと、売りの相場で成功し、さらに買い転換を誰よりも早く大量にしたことが、神様呼ばわりを招いたのだった。なお、相場には売りから入るのと、買いから入る場合とがあって、買いから入る方が誰でもやり易い。従ってそれは素人で、売りから入るのが玄人筋と昔から言われている。
2.社長就任でおこなったこと
昭和35年(1960)5月小菅宇一郎社長の後をうけ、59歳で社長になった。社長に就任して最初にやったのは、相談役制の採用で、伊藤忠兵衛さんほか二人の先輩にお願いした。次に会社経営の基本方針を定め、組織の和と能力主義を基本理念に、具体的には非繊維部門の拡充を最重要目標にした。この目標はそれから今日まで一貫してきたが、それほどまでに心血を注がなければならなかったのは、その面における当社の弱さであった。そこで私は相当思い切った人員の配置換えをして重化学部門を拡充し、主として海外へ急速な進出を実施した。その結果、37年3月期にわずかながら非繊維部門の取り扱いが、売り上げの半分を越えた。
3.海外進出の一例・・木材チップ事業
南米における木材チップ事業は、8年前から当社が取り組んだ開発事業である。紙の消費量は一国の文明を計る尺度というが、その原料は限られており、生育に大変期間を要するものだ。私は日本の現状からみて、この極めて息の長い計画に敢えて取り組む決意をした。プロジェクトは、原産地が豪州のユーカリ樹を、高温で広大なブラジルで植林すると、わずか8年で最高の原料木が伐採できるようになる。しかもあとから出る芽を育て、結局3回ほど採木できるという経済性に着目したわけである。
しかし、当時の業界、政府も取り上げてくれなかったが、昭和44年(1969)に至って、やっと国家的な見地からこれを取り上げてくれた。何分植林、工場建設に長い期間を要し、その間の膨大な投資を考えると、一企業の事業ではないので、王子製紙をはじめとする日本の製紙会社10数社と伊藤忠商事で、日伯紙パルプ資源開発会社をつくり、この会社と現地側の合弁先代表リオ・ドーセ社との間に、48年11月8日、合弁に関する契約が締結された。この調印式には時の田中角栄首相、中曽根康弘通産相をはじめ、ブラジル側からレイテ鉱山動力相、ネット蔵相等、両国高官が出席され、国家的大事業がスタートした。
4.恩人・伊藤忠兵衛さん
私は受験生として父親と一緒に出向いた。入社面接の試験場では私が一番早く答案を出したのを覚えている。面接で忠兵衛さんからいろいろ質問されて、とても緊張したが、終わると忠兵衛さんから、君は帰らずに、あとで父ともう一度来たまえとのことだった。再面接で私は即座に伊藤忠に採用が決定、また忠兵衛さんから八幡商業へ入学するようにと勧めていただいた。
こうして、熱望していた医学方面にはないにしても、長年抱き続けていた進学の夢が、忠兵衛さんに面接した時、一挙に現実のものとなり、父も私の手をとって涙せんばかりに喜んでくれた。
私はしみじみ思う。人の一生は、よき指導者にめぐり合うことができるかどうかが、まずその人の運営を大きく左右する。十数年前に、もし私が伊藤忠兵衛さんに会うという幸運に恵まれなかったらいまの私はあり得なかっただろう。しかも運よくめぐりあう機会に恵まれても、認められる何かを持っていなければならないし、またそれを見抜く眼力ももちろん必要である。いずれかその一つが欠けても幸運はやって来なかったのだ。それを思う時、私はすべての条件が合致した若き日の自分の幸運を、やはり神仏のご加護としか思いようがないのである。
忘れられない伊藤忠兵衛翁のお言葉
翁には、若いころからいろいろ教えられたが、事業経営の話の中に、経営にとって人格者ほど危ないものはないというのがあった。これは翁がまだ若い時、後に蔵相になって金解禁をやった井上準之助氏から、在米中に教えてもらった言葉だと聞いたが、聖人君子というだけでは経営は難しい。信用できても、経営の才能は別だから、それを混同しないようにということだが、大変味のある教訓だと思う。
翁の私に対する最終のお言葉は、私にとって生涯忘れられない感激であった。翁はご病床から、弱々しいがはっきりした声で「越後君が伊藤忠に入ってくれてよかったな。本当に良かった」と繰り返された。私は返す言葉もなく、ただ頭を下げていた。それがこの世のお別れになった。大恩のある翁からいただいた、ただの一言だが、私にとってはこれ以上はない喜びであり、最高の慰めでもあった。
そんな温かい思い出を残して、翁は天国に旅立たれたが、ご葬儀は、当社と丸紅、東洋紡績の三社合同葬で行い、私は葬儀委員長として、最後のお務めを果たした。