豊道春海 ぶんどう しゅんかい

芸術

掲載時肩書書道家・芸術院会員
掲載期間1968/09/10〜1968/09/28
出身地栃木県
生年月日1878/09/01
掲載回数19 回
執筆時年齢91 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社養子:6歳で僧籍
配偶者義兄娘
主な仕事華徳院住職、書道布教、謙慎書道会、瑞雲書道会、毛筆保全、日中書道交流、日本書道美術院
恩師義父・篠原守慶大僧正、書道:西川春洞
人脈岩村真道老師、洞門七福人、佐藤慶太郎、郭沫若、佐々木信綱
備考天台宗
論評

1878年〈明治11年〉9月1日 – 1970年〈昭和45年〉9月26日)は栃木生まれ。大正から昭和に活躍した天台宗の僧、書家。六歳で僧籍に入り、1890年東京浅草華徳院住職となる。91年より書を西川春洞に学んで、六朝風の楷書に独自の書風を作り出した。1914年東京大正博覧会で千字文が銀牌となる。同年瑞雲書道会を主宰、1930年(昭和5年)に泰東書道院を設立し、戦後は日本書道美術院創立に尽力し、1947年日展に五科〈書部門〉を設置することに力を尽くした。

1.書道への決意
18歳といえば青雲の志やみがたい時期である。人並みに中学に進学したいという気持ちは日増しに募ってくる。けれども自分の志を貫くことは、師の意に背くことになる。得度を受けた時、私は師から、仏教でいちばん大事なことは「因果応報」であると授かっていた。この理(ことわり)からいえば、6歳の時から引き取って育ててくれた叔父であり義父の篠原守慶大僧正は第二の父である。その守慶師のためにならないことをすることは、仏門にある身に許されることではないと、私は日々懊悩していた。
 そんなある日、月刊誌で「潜行密用は愚の如く魯の如し、ただよく相続するを主中の主と名づく」という曹洞宗の「宝鏡三昧」の中の句を見た。これを読み返し読むうちに、「ばかのようになってうむことなく一つのことを続けていれば、やがて主人公中の主人と仰がれるような人になる」と解した。
 その「一つのこと」は、私にとっては書である。西川春洞先生に入門して書道を始めたのもこれまた因縁であり、書道は私に授かったものである。これからは「愚の如く魯の如し」になって書道に専念しよう。進学すれば時間を取られて守慶大僧正に迷惑をかけるが、週に一度の春洞先生お宅へ伺えばすむ書道ならその心配もないと。こうして宝鏡三昧の一句は、私の一生を決定した。

2.修業時代・・楷書10年
書道におのれの道を見出そうと決意してからは、けいこ日からけいこ日の1週間の間、単に練習するというのでなく、全部、先生に見せる清書を書くのだという気組みで一枚一枚力を入れて書くようにした。うまく書けなくて恥ずかしいと思うようなものでも残らず持参して見ていただき、ありのままの批判をいただいた。
 西川先生は、私が入門して10年間、楷書以外の字を書くことを許されなかった。書には楷、行、草、篆、隷と5つの書体があるが、楷書はその基本であり、絵で言えばデッサンに当たる。先生は私に基本を徹底的に叩き込もうとされたのである。今日ではこのように気の長い指導者も学習者もいないであろう。しかし私にとってこの「楷書10年」は、今日なお未熟ではあるがいささかの自覚を持たせた力となっている。

3.全身全霊なら真冬でも汗
日露戦争の戦没忠魂供養塔の碑文を書くことになった。高さ3間余、幅三尺角の碑に「皇軍戦没者忠魂供養塔」の九字を隷書で大書するのである。一枚書きあげると翌日西川先生宅に持参して欠点を指摘していただき、また書き直す。例によってこれを何回も繰り返したのだが雪が7,8センチも積もったある寒い朝、先生は「どういう風に書いたか」と問われた。「寒いので火鉢をいれ暖をとり書きました」とありのままに答えた。すると先生は「それはいけませんな。寒さを忘れて汗が出るくらいでなければ・・」と言われた。
 家に帰って一生懸命書いてみたが、どうしても汗は出なかった。が、ひと月後にお許しが出て書を納めた。
ところがそれから26年後の昭和27年(1932)、高松宮殿下はじめ旧宮妃四方がお揃いのところで大字揮毫をご覧願った。紙の上を歩いて筆を運ばなければ書けない大字で、私としても初めての試みだったので、失敗はならじと、それこそ必死になって打ち込んだ。するとどうだろう。正月の5日というのに拭いても拭いても汗が出て目がくらみそうになった。なるほど先生の言は嘘ではなかった。自分の努力が足りなかったのだと、このときなってやっと知り得たのだった。わたしはそのとき72歳だった。

豊道 春海(ぶんどう しゅんかい、1878年明治11年〉9月1日 - 1970年昭和45年〉9月26日)は、大正から昭和に活躍した天台宗の僧、書家。幼名は川上 寅吉(かわかみ とらきち)、得度後の僧名は慶中(けいちゅう)。別号に龍渓(りゅうこく)、谷門道人(こくもんどうじん)、天門海翁(てんもんかいおう)がある。栃木県佐久山町(現:大田原市)の出身[1][2]。子に天台僧で書道家の印南溪龍、孫に天台僧で書道家の印南溪峻がいる。

  1. ^ 柴田光二 (2010年2月25日). “豊道春海没後40年で顕彰碑除幕”. 毎日新聞: p. 栃木版、25面 
  2. ^ “大田原市が豊道春海の顕彰碑建立へ 名誉市民の功績後世に”. 下野新聞. (2010年1月21日). http://www.shimotsuke.co.jp/town/region/north/otawara/news/20100121/271560 2010年3月8日閲覧。 
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