豊竹山城少掾 とよたけ やましろの しょうじょう

映画演劇

掲載時肩書文楽座紋下
掲載期間1959/02/03〜1959/02/23
出身地東京都
生年月日1878/12/15
掲載回数21 回
執筆時年齢81 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社12歳入門
配偶者茶屋娘
主な仕事4歳歌舞伎子役、踊り・長唄、8歳浄瑠璃、播半養家、15歳舞台、文楽座4度入退部
恩師二代目津太夫
人脈伊志井寛(浄瑠璃)、相三味線(名人団平、三世清六師匠)、杉山茂丸、綾瀬太夫、
備考浄瑠璃は 家元なし、2升酒のみ
論評

1878年(明治11年)12月15日 – 1967年(昭和42年)4月22日)は明治・大正・昭和の三代にわたって活躍した義太夫節大夫。近代屈指の名人として知られ、義太夫節・人形浄瑠璃に大きな足跡を残した。戯曲に対する深い解釈と、心理描写の徹底した細緻さ、さらに豪壮にして巧緻な音遣いによって、同時代のうちでも名人中の名人と言われ、その芸風は「山城風」と呼ばれた。義太夫節のみならず、浄瑠璃や邦楽などの古典芸能の分野からも尊敬を集める逸材でした。

1.浄瑠璃はやっかいな音楽
7歳のとき父に連れられて文楽を見物しました。そのとき、太夫は一人で幾役も語りこなし、人形も三味線も太夫のいうとおりになるのだから、太夫が一番えらい。何とかして太夫になりたいと思うようになりました。
 ところが浄瑠璃ほど厄介な音楽はありません。それというのも、たった一人きりで殿様の声も出さなければならないし、お姫様にもならなければならないし、そのほか、じいさん、ばあさん、芸者から、傾城、武士、百姓、町人、でっちから乞食にいたるまで、語りこなさなければならないのです。そのうえ文章に従って喜怒哀楽、雨、風、雪、春夏秋冬の季節感や、来ている着物の色にいたるまで森羅万象、ありとあらゆる情景を表現しなければなりませんし、それには想像も及ばない業を必要とするのです。
 「忠臣蔵」でいえば由良助から判官、師直、お軽、勘平、兵右衛門など全部一手に引き受けて語らなければならないのです。お軽がよく語れても、勘平が語れないような太夫は仲間内では「片輪」と言います。

2.太夫の序列
太夫の階級は大きく分けて、大序、序中、二段目、三段目、四段目、五段目語りといろいろあります。まず文楽に入って太夫の名前を貰うと「大序」に入ります。それから序中、二段目、三段目語りになりますが、「三段目」は全段のヤマにならっていて、曲もむずかしいのですから、人によって得手、不得手はありますが、三段目語りになれば立派なもので、四段目、五段目も語れます。
 「仮名手本忠臣蔵」を例にとると、「松の廊下」が大序、「判官切腹」が二段目、「身売りから勘平切腹」が三段目、「一力茶屋」~「山科閑居」が四段目、「討ち入り、大団円」が5段目という仕組みになっています。
 この序列の出世は、大序から序中になるのに早いもので4,5年、遅いもので10年ぐらいかかります。さらに10年以上も修行して「序切」に出世します。序切語りになればもう一人前で、楽屋では羽織を着られるようになり、三段目や三段目の端場(導入部)を勤めることもできます。しかし序切語りになるまでに修業の辛さに何人かが脱落してしまいます。ひどいのになると序切はおろか一生大序にいた人さえあります。

3.稽古は無報酬で受ける
浄瑠璃の世界はだれでも無報酬でけいこしてくれます。そのかわり、これはと思う師匠方に対してはふだんからかわいがられるように心掛け、お茶くみから使い走りの雑用をしてあげるのですが、報酬といえばこれが報酬でしょう。これは結局われわれの給金が安いからこういう習慣ができたのでしょうし、また一つには家元制度がないから、自然開放的になったのでしょう。
 こうして習い覚えたものを自分のモノに仕上げて、こんどは師匠に聞いてもらうのですが、芸が崩れていなければ師匠は決して何も言いません。なにしろわれわれの修業時代には師匠の津太夫をはじめ団平、摂津大掾、大隅太夫、越路太夫、五世広助、弦阿彌、吉兵衛、三世清六さんといったそうそうたる名人がキラ星のごとく並んでおられましたので、こういう方々の立派な芸を盗み放題盗めたのですから全く幸福でした。

豊竹 山城少掾(とよたけ やましろの しょうじょう、1878年明治11年)12月15日 - 1967年昭和42年)4月22日)は明治大正昭和の三代にわたって活躍した義太夫節大夫。近代屈指の名人として知られ、義太夫節・人形浄瑠璃に大きな足跡を残した。本名は金杉 彌太郎(かねすぎ やたろう)。

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