谷川徹三 たにがわ てつぞう

学術

掲載時肩書前法政大学総長
掲載期間1967/12/05〜1967/12/31
出身地愛知県
生年月日1895/05/26
掲載回数27 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他一高
入社同志社講師
配偶者林達夫妹友
主な仕事ロシア劇、歌劇、寄席、落語、親鸞、同志社、法政大学、陛下と食事
恩師近角常観、西田幾多郎、有島武郎
人脈三島徳七、諸井貫一、有島武郎、三木清、林達夫、志賀直哉、和辻哲郎、岩波茂雄、野上豊一郎・弥栄子
備考ドモリ癖治療
論評

1895年〈明治28年〉5月26日 – 1989年〈平成元年〉9月27日)は愛知県生まれ。哲学者。法政大学総長などを務めた。ジンメル、カントの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。また宮沢賢治の研究家でもあり、自ら詩も書いた。賢治については「雨ニモマケズ」を高く評価し、同作に否定的な見解を表明した中村稔の評論に批判をおこなって、中村から反論を受けた。柳宗悦とも交流があり、終生民藝運動を支えた。晩年に終生の座右の書は『論語』『正法眼蔵』『ファウスト』と述べている。草野牛郎のペンネームを用いて自由律短歌も書いた。詩人の谷川俊太郎は長男。作曲家の谷川賢作は孫。スタイリストの谷川夢佳は曾孫。元愛知県常滑市長の庭瀬健太郎は甥。林達夫、三木清とは同期の友人。

1.有島武郎さんから鑑賞眼を
私は有島さんに連れられて京都・嵯峨や醍醐、八幡あたりを歩き、何かと有島さんの言葉を聴いているうちに仏像や建築、庭苑の美などに少しずつ目が開かれてきたのだった。石清水の八幡宮の参道の石段を上りながら、その石段の傾斜度と一段一段の高さと、段から段に至る距離とが、人間の歩幅にいかによく合っていて上がりいいことを一種の感動をもって、有島先生が語られたこと、日野の法界寺の屋根の美しさをしきりにほめたたえられたことなど今に忘れ得ない。法界寺では私は堂内の壁画だけに心を奪われていたし、石段の傾斜度などについては今まで考えたこともなかったので、なるほど物はそういう風に見るものかと私は思ったのである。
 さらに絵画についても古い仏画や絵巻物に、さらに焼き物や漆器、金工など工芸の世界まで、広く東洋の芸術全般に目が開かれ、そればかりでなくだんだん深い愛着を持つようになった。

2.志賀直哉、和辻哲郎、柳宗悦から啓発を
志賀さんに初めてお目にかかったのは大正12年(1923)の春、志賀さんが京都へ居を移して間もなくだった。私は一高時代からの愛読者であったから、ずいぶんと足繁く通ったものだ。山科の時分一緒に疎水で泳いだり、奈良の時分には一緒に軟式野球をしたりした。志賀さんの文学もさることながら、私は志賀さんの人間を文学以上に立派だと思っている。昔から志賀さんの眼は何とも深い美しい眼だったが、そこに私は志賀さんの男らしい誠実な生活のいわば集約を見る思いをいつもしてきた。
 和辻さんは一言でいえば、イデェを見る人であった。和辻さんのこのイデェを見る眼は「風土」の中に典型的に示されている。哲学や倫理学や芸術論や精神史の諸領域に、独自の業績を示されたのであった。私は和辻さんのこのイデェを見る眼に終始刺激され、啓発されてきた。
 柳宗悦さんを私が訪ねたのは「宗教と倫理」や「神に就いて」の著者としてであった。柳さんを訪れているうちに、その感化で陶磁器に惹かれるようになり、まずソバ猪口から入って李朝の染付や白磁に至り、後には自分でも始末に困るくらいに間口を広げてしまった。これらの人たちの影響が私の人生には大きい。

3.天皇陛下の「お相伴」役
昭和21年(1946)11月に宮内庁の官吏になった私は、当時の宮中のしきたりに従って、「お相伴」をした。これは公的な陪食でなく、私的に天皇の平生の召し上がりもので陛下と食卓を共にするのである。陛下の右に安倍能成が、陛下の左に私が、そして陛下の前には時の侍従長大金益次郎がいた。他にもう二人いたが、その食膳のものも私の記憶に長く残った。それがあまりにも貧しいものだったからである。
 黒塗りの膳に五品、主食はスイトンで、その主食を左手前として、その右にサバの薄片と大根・人参のセンロッポンを入れた澄まし汁、向こうの煮つけは一つがマグロの切り身3,4片、一つが大根だけ、そして中の一皿も里芋と人参というものであった。陛下のネクタイが使い古されてヨレヨレになったものであったこと、セミ・ソフトのカラーには少しであったけれど、傷み破れの見えていたことも私の注意をひいた。これは私に強い印象を与え、改めて私に日本の皇室というものについていろいろなことを考えさせた。

谷川 徹三
生誕 1895年5月26日
愛知県知多郡常滑町(現:常滑市保示町)
死没 (1989-09-27) 1989年9月27日(94歳没)
出身校 京都帝国大学文学部哲学科
子供 谷川俊太郎
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谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年明治28年〉5月26日 - 1989年平成元年〉9月27日)は、日本哲学者法政大学総長などを務めた。愛知県知多郡常滑町(現:常滑市保示町)生まれ。京都帝国大学文学部哲学科卒業。日本芸術院会員。常滑市名誉市民。

ジンメルカントの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。詩人谷川俊太郎は長男。作曲家谷川賢作は孫。スタイリスト谷川夢佳は曾孫。元愛知県常滑市長の庭瀬健太郎は甥[1][2]林達夫三木清とは同期の友人。

  1. ^ 中日新聞』1995年2月28日付朝刊、県内版、16面、「庭瀬ゆりさん死去」。
  2. ^ 『中日新聞』1996年2月10日付朝刊、知多版、「谷川俊太郎さん 18日にサイン会 常滑の書店」。
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